はじめに ― EUにおける男女同一賃金原則の具体化と施行スケジュール
欧州連合(EU)において、「同一労働同一賃金」の原則は、すでに一次法のレベルで確立された基本原則です。すなわち、欧州連合の機能に関する条約(TFEU)第157条は、男女労働者に対する同一労働又は同一価値労働についての同一報酬を加盟国に義務付けています。また、欧州連合基本権憲章第23条も、男女平等の原則を明示しています。
もっとも、実務上は依然として男女間の賃金格差(gender pay gap)がEU全体でなお残存しています。Eurostatによれば、EUにおける2024年の unadjusted gender pay gap は11.1%であり、加盟国間・産業間で濃淡はあるものの、形式的な権利保障にもかかわらず、実効的な救済と構造的是正が十分に機能していないという問題が指摘され続けてきました。(European Commission)
こうした背景の下、2023年5月10日、EUはDirective (EU) 2023/970(以下「本指令」といいます。)を採択しました。本指令は2023年6月6日に発効しており、加盟国は2026年6月7日までに国内法化を完了する義務を負います。
本指令は、単に新たな情報開示義務を課すにとどまらず、立証責任の転換、損害賠償制度の強化、行政的制裁の導入を通じて、男女同一賃金原則の「実効性確保」を制度的に再構築するものです。企業にとっては、人事制度、報酬体系、データ管理体制に対する構造的見直しを迫る立法として位置付けることができます。
制度的位置づけ ― 既存の平等法制との関係
本指令は、既存の男女平等待遇法制を補完・強化するものです。とりわけ、雇用及び職業における男女平等を定めるDirective 2006/54/EC(いわゆるRecast Directive)を前提とし、その実効性を高めるための手続的・証拠法的メカニズムを導入しています。欧州委員会の解説も、本指令を、同一賃金原則の執行を強化するための最低基準として位置付けています。
従来の制度では、差別を主張する労働者が、賃金差別の存在を事実上立証しなければならない場面が多く、企業内部の賃金データや報酬決定プロセスにアクセスできないことが大きな障壁となっていました。本指令は、この「情報の非対称性」を是正することを核心的目的としています。すなわち、労働者に比較可能な賃金情報へのアクセスを認め、企業に報酬決定基準の透明化を求めることで、差別の主張・立証・救済の実効性を高めるものです。
採用段階における賃金透明性の義務化
(1)募集時の義務:求人広告や面接前における「給与レンジ」の提示
本指令は、採用前段階から透明性を確保する仕組みを導入しています。具体的には、使用者は、応募者に対して、当該職務に関する初任給又はそのレンジに関する情報を事前に提供しなければなりません(Article 5(1))。必要に応じて、当該ポストに適用される関連する団体協約条項に関する情報も提供対象となります。これらの情報は、求人広告に明示するか、遅くとも面接前、又はその他の適切な方法により提供される必要があります。
これにより、採用時点での賃金交渉における構造的格差の発生を抑制することが企図されています。
(2)面接時の禁止事項:「前職の賃金」に関する質問・照会の禁止
さらに、使用者は応募者に対し、過去の雇用関係における賃金履歴(pay history)を質問することが禁止されます(Article 5(2))。これは、過去形成された差別的な賃金水準が次の雇用における報酬決定に連鎖することを防止する趣旨です。
在職中の労働者の情報取得権
(1)個別開示請求:同一価値労働者の「平均賃金水準」を知る権利
本指令は、在職中の労働者にも、賃金に関する重要な情報取得権を保障しています。
まず、使用者は、賃金水準及び賃金進行(pay progression)を決定する基準を、労働者が容易にアクセスできる形で提供しなければなりません(Article 6)。これらの基準は、客観的かつ性中立的であることが要求されます。もっとも、加盟国は、50人未満の使用者について、賃金進行に関する情報提供義務を免除することができます。
さらに、労働者は、自らの賃金水準及び同一労働又は同一価値労働を行う他の労働者の平均賃金(性別別データ)に関する情報を書面で請求する権利を有します(Article 7)。使用者は、合理的期間内に、明確かつ理解可能な形式でこれを提供しなければなりません。
(2)不利益取扱いの禁止
情報開示請求を含む権利行使を行ったこと、又は他人の権利保護を支援したことを理由とする不利益取扱い及び報復措置は禁止されます(Article 25)。本指令は、労働者が権利を行使したことによる報復的な不利益取扱いからの保護を明示し、権利行使の実効性を担保しています。
企業規模別の賃金報告義務
(1)報告義務のタイムライン:従業員数に応じた段階的施行スケジュール
本指令は、一定規模以上の企業に対し、男女間賃金格差に関する定期的報告義務を課しています(Article 9)。
報告義務の概要は以下のとおりです。
・従業員250人以上:毎年報告(初回は2027年6月7日まで)
・従業員150~249人:3年ごと(初回は2027年6月7日まで)
・従業員100~149人:3年ごと(初回は2031年6月7日まで)
100人未満の企業にはEUレベルでは報告義務は課されていませんが、加盟国が国内法で拡張する余地は残されています。
(2)報告内容
報告には、単なる平均賃金差にとどまらず、次のような詳細な指標が含まれます。すなわち、平均賃金格差、中央値賃金格差、賞与・変動報酬を含む格差、賃金クオータイルなど、詳細な指標が含まれます。
この制度は、単なる統計提出義務ではなく、企業内部での構造的格差の可視化と、外部的な説明責任を確立する機能を有します。また、本指令上、これらの報告情報の正確性については、労働者代表との協議を経た上で、企業の経営陣が確認すべきものとされており、賃金透明性は人事部門だけの問題ではなく、企業ガバナンスの問題として扱われています。
5%閾値と共同賃金評価(Joint Pay Assessment)
(1)是正義務
本指令は、賃金報告制度を、単なる情報公開制度にとどめていません。報告の結果、同一労働又は同一価値労働において、一定の閾値を超える賃金格差が確認された場合には、企業に是正対応が求められます。具体的には、ある労働者カテゴリーにおいて5%以上の賃金格差が存在し、かつそれが客観的かつ性中立的要因によって正当化されない場合、使用者は是正措置を講じる義務を負います。
(2)共同賃金評価の実施
上記の場合(賃金格差が5%以上あり、使用者が客観的・性中立的な要因でその格差を正当化できない場合)において、報告書の提出から6か月以内にその格差が是正されなかった場合には、労働者代表と共同で「共同賃金評価(joint pay assessment)」を実施しなければなりません(Article 10(1))。
この制度は、単なる情報公開を超え、構造的問題の分析と是正計画の策定を義務付ける点で、企業の人事ガバナンスに直接的影響を与えるものです。
立証責任の転換と完全賠償の原則
(1)立証責任の構造
本指令は、賃金差別紛争における立証責任の分配にも大きな変更を加えています。すなわち、差別が推定される事実が示された場合、差別が存在しなかったことを使用者側が立証しなければならないと定めています(Article 18(1))。
さらに、情報開示義務に違反した場合には、裁判所が差別の存在を推定することが可能とされています(Article 18(2))。これは訴訟において、企業側に極めて大きな負担をもたらす可能性があります。
(2)賠償上限の禁止と完全賠償の原則
本指令は、被害者に対する完全な賠償(full compensation or reparation)を要求しています。すなわち、被害者は、未払賃金、賞与、現物給付、機会損失、精神的損害等を含む完全な賠償を受ける権利を有します(Article 16)。賠償額に上限を設けることは許されません(Article 16(4))。
したがって、企業にとって本指令違反は、単なる形式的コンプライアンス違反ではなく、実質的に大きな金銭的エクスポージャーを伴うリスクとなります。
制裁及び執行メカニズム
加盟国は、本指令違反に対して、効果的・比例的・抑止的な制裁を設ける義務を負います(Article 23)。これには、罰金が含まれ得ます。
また、平等機関(equality bodies)や労働組合が、労働者に代わって手続を開始することを認める制度も整備されます(Article 15)。これにより、労働者個人に依存しないエンフォースメントの強化が図られています。
さらに、実務上重要なのが、公共調達との関連です。本指令は、加盟国に対し、公契約又はコンセッションの履行において、事業者が同一賃金原則及び本指令上の関連義務を遵守することを確保するための措置を講じるよう求めています(Article 24)。したがって、一定の場合には、賃金透明性義務違反又は是正未了の格差が、公共調達上の不利益や受注リスクに連動する可能性があります。
実務上の示唆 ― EUで事業を展開する日本企業への影響
本指令は、単なる情報開示規制ではなく、報酬決定プロセスそのものの透明化と合理化を要求するものです。EU域内に子会社又は拠点を有する日本企業にとって、以下の対応が不可欠となります。
(a) 職務評価制度の再設計(同一価値労働の客観的基準化)
(b) 報酬レンジ及び昇進基準の文書化
(c) 性別別賃金データの収集・分析体制の整備
(d) 人事部門・法務部門の連携強化
(e) グループ横断的コンプライアンス体制の構築
本指令の大きな特徴の一つは、性別だけでなく、人種や障がいなどの他の差別要因が組み合わさった交差的な差別(intersectional discrimination)を明文化した点にあります(Article 3)。単なる男女比較にとどまらず、多角的な属性データに基づいた分析が将来的に求められる可能性があります。特に、採用、昇給、昇進、変動報酬、職務評価、等級制度といった制度全体が整合的に設計されていることが重要です。
特に、多国籍企業においては、本指令対応がESG・ダイバーシティ戦略とも密接に連動します。賃金透明性は単なる法的義務ではなく、企業のレピュテーション及び人的資本戦略に直結するガバナンス課題となりつつあります。
おわりに
本指令は、EUにおける男女同一賃金原則を、理念から実効的権利へと転換させる画期的立法です。その核心は、「透明性」を通じた構造的差別の可視化と是正にあります。
企業にとっては、単にデータを開示すれば足りるのではなく、報酬決定のロジック自体が客観的・性中立的であることを説明可能な状態に置く必要があります。
2026年6月の国内法化期限を見据え、EUで事業を行う日本企業は、早期にギャップ分析を実施し、人事制度・契約実務・内部統制体制を横断的に点検することが不可欠です。本指令は、労働法領域におけるコンプライアンスの在り方を再定義するものであり、その影響は長期的かつ構造的なものとなるでしょう。