※本記事は、一般社団法人日本ブラジル中央協会発行のブラジル特報(2026年3月号)に掲載されたものであり、特段の注記がない限り、当該雑誌掲載日時点の情報に基づいている。
1. 競争政策の変化
ブラジルにおける競争政策のあり方が、今、大きな転換点を迎えている。かつての競争法の取締り対象といえば、製品価格の吊り上げなどの王道のカルテルが主眼であった。しかし、ブラジルの競争当局であるConselho Administrativo de Defesa Econômica(CADE、経済擁護行政委員会)は現在、その監視の目を人事や環境保護といった、一見すると競争とは無縁に思える領域にまで広げている。
日本企業の現地法人にとっても、これらはこれまでの常識が通用しないリスクとなり得る。本稿では、最近の注目事例である「人事カルテル」と「大豆モラトリアム」を題材に、実務上の留意点を解説する。
2. 人事カルテル
ブラジルでは今、「人事カルテル」への関心が高まっている。これは、企業間で給与、福利厚生、ボーナスなどの情報を交換したり、互いの従業員を引き抜かない引き抜き防止協定を結んだりする行為を指す。人事カルテルで留意すべきなのは、これまでこのような人事情報の交換は一般的に行われてきたことである。ブラジルでは、すべての企業が所在地及び業態によって決定される労働組合に代表され、使用者を代表する使用者団体と労働者を代表する労働組合間で締結される労働協約は法律と同様に拘束力を有する。労働協約は、給与の昇給率、福利厚生などが規定されるが、それらの事項は労働協約の交渉を通じて公に議論されることが多い。そのため、人事担当者にとって「他社の給与水準を確認し、足並みを揃える」ことは、実務上の慣習として行われてきた。
しかし、CADEは、これらの人事情報の交換についても最近取締りを強化している。人事カルテルに関する最初の調査は、2021年に開始されたMedTechと呼ばれるヘルスケア業界の人事部門グループによる人事情報の交換に対して行われた。2024年には、CADEは新たに3件の調査を開始した。調査対象となったのは、消費財業界の人事部門で構成されたグループ、企業の経営層や役員クラスの給与体系に関する情報交換を目的としたグループ、給与以外の福利厚生(健康保険、各種手当など)の管理担当者で構成されたグループ及びフォークリフト業界のグループである。これらの調査の開始はいずれもリニエンシー(関与者による当局に対する自己申告)が発端となっている。CADEは、給与水準や昇給額の合意による固定、引き抜き防止合意、福利厚生やボーナスに関する情報交換などを問題視している。なお、一部の企業は、巨額の制裁金を避けるために違反を認めて調査を終結させるTermo de Compromisso de Cessação(TCC)と呼ばれる和解を当局と締結したが、その他の企業に対する行政手続は続いている。
3. 大豆モラトリアム
もう一つの注目事例は、環境保護を目的とした業界内の取り決めに対してCADEが行政手続を開始したケースである。大豆の買い手、環境団体及び業界団体は、アマゾンの森林破壊を防ぐために、2006年に、2008年以降に森林伐採されたエリアで栽培された大豆を購入しないという合意(大豆モラトリアム)に署名した。かかる合意は、環境保護の観点からは極めて重要な取り組みだが、一部の大豆生産者や州政府による告発を契機にCADEが行政手続を開始した。CADEは2025年9月、この仕組みが特定の生産者を市場から排除したり、購入条件を一律に固定したりする不当な制限に当たる可能性があるため、2026年1月からかかる仕組みを停止すべきとの予防的措置命令を出した。その後、連邦最高裁判所が、憲法問題はすべて連邦最高裁判所が判断すべきということを理由に、CADEの行政手続や上記予防的措置を停止する決定を出した。今後連邦最高裁判所が本件についてどのような判断をするか不透明であるものの、この事例が示唆するのは、環境保護という大義名分があっても、競争法を完全に無視することはできないという点である。
4. 求められるガバナンスのアップデート
ブラジルにおける競争法の取締り強化は、もはや法務・営業部門だけの問題ではない。人事担当者による他社との給与情報の交換や業界団体を通じた環境保護指針の策定といった、これまで一般的に行われてきた現場の慣行がカルテル行為とみなされる可能性があることを念頭に置く必要がある。特にカルテル事案では、和解にあたって違反者が違反を認めることが法的に必要であるため、和解の事実自体がその後の民事訴訟における不利な証拠となる。そのため、一度カルテル調査が始まれば経営への影響は避けられない。
したがって、企業は、競争法に関するガバナンス体制を抜本的に見直す必要がある。人事やサステナビリティといった、従来は対象外とされがちな部署に対してもリスクを周知するとともに、人事情報収集や業界団体への参加に関するガイドラインの策定、定期的なトレーニングを実施するなど、ブラジル特有の労働文化や業界慣行を踏まえた本社主導の管理体制を構築することが重要となる。