※本記事は、一般社団法人日本ブラジル中央協会発行のブラジル特報(2026年5月号)に掲載されたものであり、特段の注記がない限り、当該雑誌掲載日時点の情報に基づいている。
1. マスター銀行事件
ブラジルの金融市場において、近年最も衝撃的な事件がマスター銀行(Banco Master)の破綻である。同行は1970年代設立の中堅銀行を前身とするが、2018年頃から現オーナーのダニエル・ヴォルカロ(Daniel Vorcaro)氏を中心とした新体制下で拡大戦略に転じた。
成長の原動力は、高金利が続くブラジル市場の特性を突いた高利回り商品である。同行は、通常の商業銀行を大幅に上回る利回りの定期預金(CDB)等を次々と投入し、高リターンを求める個人投資家に次々に販売した。
しかし、その急成長の裏には深刻な歪みが潜んでいた。同行の資産ポートフォリオは、実態のないペーパーカンパニーへの融資や不良債権、不適切な評価操作によって粉飾されていた疑いがある。流動性危機が表面化する中、同行は公的性格を持つブラジリア銀行(Banco de Brasília S.A.)への売却による救済を試みたが、中央銀行は資産の不透明さを理由にこれを認めなかった。また、同行は、自社商品を販売する際に、「25万レアルまでは預金保護機構(FGC)が保証する」という事実をセールスポイントとして利用していたことも大きな批判を浴びた。
最終的に2025年11月、中央銀行は重大な規制違反と流動性不足を理由に、経営権を剥奪する「特別清算」を命じ、オーナーのヴォルカロ氏は逮捕された。
2. マスター銀行事件から学ぶべき教訓
(1) 法制度の存在と「運用の実効性」の乖離
ブラジルには、国際的な「バーゼル規制」に基づく厳格な自己資本比率の維持や、中央銀行による強力な監督権限など、一見すると先進国並みの強固な金融規制が存在する。しかし、本件が示すのは「制度が存在すること」と「それが正しく機能すること」の間には、依然として深い溝があるという事実である。本来、バーゼル規制が適正に遵守され、監督官庁である中央銀行が早期に資産の質を精査していれば、被害の拡大を防げたはずである。
日本企業が現地でパートナーを選定したり、金融取引を行ったりする際には、形式的なライセンスの有無や財務諸表の数字だけでなく、その「運用の実態」にまで踏み込んだデューデリジェンスが不可欠であることを改めて理解する必要がある。
(2) 公的会社・半官半民会社との提携という「盲点」
本件で注目すべきは、連邦直轄区が筆頭株主であるブラジリア銀行が、経営危機に陥ったマスター銀行との提携や買収交渉に深く関与していた点である。ブラジルには多くの公的会社や半官半民の組織が存在し、それらとの提携は一見すると「政府のお墨付き」を得たような安心感を与える。しかし、本件では、公的性格を持つブラジリア銀行との協力関係が、むしろ民間の不正を覆い隠す隠れ蓑や、政治的に不透明な支援の温床となっていた疑いが指摘されている。提携先の背後に「公」の影があるからといって、無条件に信用を置くことは、ブラジル特有の政治的リスクを見落とすことにつながりかねない。
(3) 根深い汚職構造とコンプライアンスの限界
ブラジルの汚職といえば、かつての巨大利権汚職事件「ラヴァ・ジャット(Lava Jato)」が有名である。同事件では多数の政治家や企業幹部が逮捕され、ブラジルの浄化が進んだように見えた。しかし、本件では中央銀行の元幹部や最高裁判事の周辺までもが捜査の対象となり、未だに構造的な癒着が残存している可能性が浮き彫りになった。現在進行中の捜査では、中央銀行の職員がマスター銀行のオーナー側から多額の収賄を受け、同行に対する特別監査の内容や清算実施のタイミングといった、極めて機密性の高い内部情報を漏洩していた疑いが報じられている。ラヴァ・ジャット以降も汚職事件が絶えず、その都度当局による摘発が繰り返されている事実は、ブラジルにおいて汚職リスクが常に存在することを再認識させるものである。
(4) 公的機関同士の「権力争い」と法的予見可能性の欠如
最後に留意すべきは、ブラジルにおける公的機関同士の対立と、それに伴う法的安定性の欠如である。本件では、中央銀行が下した「清算」という専門的な行政判断に対し、会計検査院(Tribunal de Contas da União)が清算手続の妥当性を精査するという異例の関与を見せた。ブラジルでは、各機関の権限が憲法や法律上で重複していたり、解釈が分かれたりすることが多い。一つの機関が決定を下しても、後から別の機関がそれを覆したり、手続きを長期にわたって凍結させたりするリスクがある。これは金融機関に限った話ではない。例えば、民事再生中の企業から事業の一部を買収しようとする際、管轄裁判所の許可を得たとしても、別の公的機関の異議申し立てによって手続きが数年単位で停滞することは珍しくない。ブラジルでのビジネスにおいては、当局の「決定」は必ずしも最終的な解決を意味しないことは理解しておく必要がある。