1.はじめに
OpenAI社が開発した生成AI「ChatGPT」を契機に、AI規制に関する国際的議論が一変したことは記憶に新しく、IT大国として名高いインドでも例外ではない。Nasscom(インド主要IT企業の加盟団体)らが発表した報告書「AI-Powered Tech Services: A Roadmap for Future Ready Firms; AI & GenAI's Role in Turbocharging the Industry」によると、インド国内のAI市場は年平均成長率25~35%で成長し、2027年までに170億米ドルに達する見込みである。生成AIに関しては論点が多岐にわたるが、本稿では、本年1月に公表された「AIガバナンス・ガイドライン策定に関する報告書」(Report on AI governance guidelines development)(注1)にも言及しつつ、AIをめぐるインドの現況について概観したい。
2.経緯
2022年11月に「ChatGPT-3.5」、翌年3月に有料版「ChatGPT-4.0」が公開されて以降、その想像を超えた性能の高さ、及び生成AIへのリスクの懸念から、AIに関するルール作りの国際的議論が急速に進められた。中国では、2023年7月10日に早くも「生成式人工知能サービス管理暫行弁法」が成立し、EUでは、かねてより策定されていた法案が生成AIを念頭に大幅に改定され、2024年5月に「AI規則(AI Act)」として成立した。米国では当初、自主規制を示唆する動きも見られたが、その後立法論が展開され、現時点では州レベルで複数の法案が成立している(注2)。日本においても、各省庁にて集中的な議論が行われ、ガイドライン等が策定された後、現在はAI関連法案の策定に向けた議論が進められている。
インドでは、かねてよりAIをめぐる議論が活発に行われており、2020年にインド国内のAI関連情報を集約する公式AIポータル「INDIAai」が立ち上げられ、積極的な情報発信が行われてきた。また、2024年には、ニューデリーで「Global IndiaAI Summit 2024」が開催され、インドは、Global Partnership on Artificial Intelligence(GPAI)の議長国としての役割を果たした。さらに同年3月7日、インド政府は約1037億インドルピー(約1825億円)の予算支出を伴う大規模政策であるIndiaAI Mission(注3)を承認している。ChatGPTの公開当初、インド政府は生成AIを念頭に置いた立法規制に消極的な立場を示していたが、2024年3月6日、電子情報技術相ラジーブ・チャンドラセカール(Rajeev Chandrasekhar)氏がAI規制の枠組み案を発表すると宣言した。
このような動向の一環として、2025年1月6日、「AIガバナンス・ガイドライン策定に関する報告書」が公表された。同報告書においては、規制当局を含む政府の役割が強調されており、同年3月6日には公共部門におけるAIコンピテンシー・フレームワークが公表されている(注4)。なお、これに先立つ2024年11月21日においても、米国シンクタンク「カーネギー国際平和基金(Carnegie Endowment for International Peace)」のインド政策シンクタンク「カーネギー・インディア(Carnegie India)」は、AI規制に対する政府や産業界等の関係者からの意見を踏まえて包括的に分析し、インドが取るべきアプローチについて提言する論文を公表している。この中で、インドにおいては、AI規制は、成文法ではなく、まずは自主規制によりなされるべき旨の提言がなされている(注5)。
3.「AIガバナンス・ガイドライン策定に関する報告書」の概要
(1)背景
インド政府は、AIに関するインド特有の規制及びフレームワークを検討するため、首席科学顧問(Principal Scientific Advisor)を議長とし、各関係省庁の代表及び利害関係者等を含むアドバイザリーグループを構成し、議論を進めてきた。そして、「AIガバナンス・ガイドライン策定に関する報告書」は、当該アドバイザリーグループの下、2023年11月9日に電子情報技術省(Ministry of Electronics and Information Technology)によって設置された「AIガバナンス・ガイドライン策定小委員会」(Subcommittee on ‘AI Governance and Guidelines Development’)における議論を経て策定されたものである。同報告書の位置づけは、インドにおけるAIガバナンス・ガイドラインに向けた政府への政策提言を行うものであり、電子情報技術省は、その内容を積極的に評価している。今後、同報告書に対するフィードバックを踏まえ、インドにおけるAI規制についての考え方を取りまとめられることが予想される。
(2)AIガバナンス
(ア)AIガバナンス原則
同報告書においては、AIガバナンス原則として、①透明性(Transparency)、②アカウンタビリティ(Accountability)、③安全性、信頼性、堅牢性(Safety, reliability & robustness)、④プライバシー&セキュリティ(Privacy & security)、⑤公正性・公平性(Fairness & non-discrimination)、⑥人間中心の原則(Human-centred values & ‘do no harm’)、⑦包括的かつ持続可能なイノベーション(Inclusive & sustainable innovation)、 ⑧デジタル・バイ・デザイン・ガバナンス(Digital by design governance)をリストアップしている。これらは、経済協力開発機構(OECD)が定めるAI原則と実質的に重なり、国際的議論にも沿うものである。
(イ)AIガバナンス原則の運用のため考慮すべき事項
AIガバナンス原則を適切に運用するにあたり、以下の三点を指摘している。
- AIシステムのライフサイクルにおける開発・導入・普及ごとの段階的検証(Examining AI systems using a lifecycle approach)
- AIシステムのライフサイクルに関与する当事者(開発者・利用者等)ごとの個別的検証(Taking an ecosystem-view of AI actors)
- テクノロジーのガバナンスへの活用(Leveraging technology for governance)
(3)リスク分析と対応
AIを利用するリスクとして、①偽情報(ディープフェイク含む)や悪質コンテンツ、②サイバーセキュリティインシデント、③知的財産権侵害(注6)、④偏見や差別等を上げており、そのうち一部のリスクについては、既存の法令を適切に解釈・適用・執行して対処することができる。そのうえで、規制当局における効果的なガバナンスを行うためには、AIシステムのライフサイクル全体を通じて適切かつ十分な情報を取得すべきであるほか、急速に発展するAIシステムは分野横断的に利用されるため、縦割り行政による硬直的・断片的な対応では新たなリスクに対応できず、政府全体によるアプローチが必要であるとする。
(4)提言
以上をうけて、同報告書は今後の施策について以下のとおり提言している。
- 電子情報技術省及び首席科学顧問は、AIガバナンスを行うための専門機関を設置すべきこと
- AIシステム等を技術レベルで理解するため、電子情報技術省において当該専門機関の窓口として技術事務局(Technical Secretariat)を設置すべきこと
- 技術事務局において、AIインシデント(AIシステムへのサイバー攻撃のほか、AIシステム自体の誤動作等による事故など)のデータベースを構築・管理すべきこと
- 透明性及びガバナンス強化の観点から、技術事務局と関連する産業界と協力関係を構築すること
- 技術事務局において、AIリスクへの対処のため技術的解決策についても検討すべきこと
- デジタルインディア法案(Digital India Act)その他関連法案を電子情報技術省と共に検討するサブグループを設置すべきこと
4.むすび
IBM社による調査「グローバルAI導入指数2023」によれば、インドでは従業員1000人以上の企業のうち約59%がAIを積極的に活用しており、当該調査対象国の中で最も高い割合であった。国民の平均年齢が若く、デジタルネイティブの多いインドにおいては、LLM(大規模言語モデル)開発に当たり多言語国家であるハンディキャップを抱えつつも、自国オリジナルの生成AI開発(「Krutrim」「Bharat GPT」「Hanooman」など)も盛んであり、AI先進国として世界を先導する可能性は高い。その一方で、今後の雇用創出を必要不可欠とするインドにおいて、AI普及が若者の雇用機会の喪失という諸刃の剣となりかねない問題と如何に向き合うかを含め、課題は少なくない。AIガバナンス・ガイドライン策定に関する報告書についても、既存の議論を進展させたものであるが、不明確な点が少なくないことが指摘されている(注7)。
AI規制を含め、インドにおけるAI関連施策の動向については国際的な関心事であるため、今後も定期的に情報をアップデートしていきたい。
注1
Report on AI governance guidelines development
https://indiaai.gov.in/article/report-on-ai-governance-guidelines-development
注2
https://www.tmi.gr.jp/eyes/blog/2025/16659.html
注3
https://pib.gov.in/PressReleasePage.aspx?PRID=2012375
注4
A Competency Framework for AI Integration in India
https://indiaai.gov.in/article/empowering-public-sector-leadership-a-competency-framework-for-ai-integration-in-india
注5
https://carnegieendowment.org/research/2024/11/indias-advance-on-ai-regulation?lang=en
注6
知的財産権のうち、AIと著作権侵害の問題は世界的に議論されている。2023年12月、米国ではニューヨークタイムズがOpenAI社に対して著作権侵害訴訟を提起し、インドでは翌年11月に大手通信社ANIが同社に対して同じく著作権侵害訴訟を提起しており、動向が注目される。日本では、文化庁が主導し「AIと著作権に関する考え方について」(令和6年3月15日・文化審議会著作権分科会法制度小委員会)が取りまとめられた。
注7
https://www.techpolicy.press/indias-ai-governance-guidelines-report-a-medley-of-approaches/
以上
TMI総合法律事務所 インド・プラクティスグループ
平野正弥/小川聡/呉竹辰
info.indiapractice@tmi.gr.jp
インドにおける現行規制下では、外国法律事務所によるインド市場への参入やインド法に関する助言は禁止されております。本記事は、一般的なマーケット情報を日本および非インド顧客向けに提供するものであり、インド法に関する助言を行うものではありません。