1.はじめに
インド労働雇用省(Ministry of Labour and Employment)は、2025年11月21日、長らく施行が延期されていた2019年賃金法(The Wages Act, 2019)、2020年社会保障法(The Code on Social Security, 2020)、2020年労使関係法(The Industrial Relations Code, 2020)及び2020年労働安全衛生法(The Occupational Safety, Health and Working Conditions Code, 2020)(以下、総称して「本労働法典」という)の施行を通知した。
本労働法典は、既存の29ある労働関係法令を統合・簡素化し、上記4つの法典に統合した、という意味で、インドの労働関連法令の重大な変化といえる。本労働法典の特徴として、労働者保護の強化と規制遵守の簡素化を目的とする一方で、詳細な規則は未だ確定しておらず、当面の間は運用面での不透明さが残っている。
本号では、本労働法典の概要を整理した上で、これらの施行が日系企業を含む外国企業に与える影響について検討する。
なお、本労働法典のうち、2020年労働安全衛生法、2020年労使関係法、2019年賃金法及び2020年社会保障法の概要については、以下のインド最新法令情報も参照されたい。
■インド最新法令情報(2020年10月号)インド労働法の再編~2020年労働安全衛生法~
<https://www.tmi.gr.jp/service/global/asia-pacific/2020/12004.html>
■インド最新法令情報(2020年12月号①)インド労働法の再編2~2020年労使関係法~
<https://www.tmi.gr.jp/service/global/asia-pacific/2020/12138.html>
■インド最新法令情報(2021年1月号)インド労働法の再編~2019年賃金法~
<https://www.tmi.gr.jp/service/global/asia-pacific/2021/12266.html>
■インド最新法令情報(2021年3月号)インド労働法の再編~2020年社会保障法~
<https://www.tmi.gr.jp/service/global/asia-pacific/2021/12415.html>
2.本労働法典の主要なポイント
(1)施行の現状と規則(Rules)の策定状況
2025年11月21日をもって、本労働法典の改正前の29の旧労働関連法(以下「旧法」という。)は、原則として廃止された。ただし、本労働法典を完全に運用するための規則は未だ整備途上にあり、中央政府は2026年4月1日までの公表を目指して準備を進めている。
規則制定前においても、一部の当局(Employees’ State Insurance Corporation(従業員国家保険公社)等)では、2020年社会保障法に基づく「家族」の定義拡大(女性従業員の義理の両親の包含等)を先行して適用し始めている。
(2)「賃金(Wages)」の定義の見直しと財務的影響
旧法においては、法典ごとに統一性がなかった「賃金」の定義は、本労働法典全体を通じて一元化された。「賃金」に該当しないものの労働者に支払われる手当(住宅手当等)の合計が報酬総額の50%を超える場合、その超過分は「賃金」とみなされる。この結果、社会保障費や退職金(gratuity)の算出において基礎となる賃金範囲が拡大し、企業の退職金引当金や支払いコストが増大する可能性がある。
(3)「ワーカー(Worker)」の範囲の変更
従来の「ワークマン(Workman)」という用語が「ワーカー(Worker)」に置き換わったうえで、定義が変更された。例えば、以前は10,000ルピーまでの監督業務従事者が「ワークマン」とされており、それ以上の月給をもらっている者は「ワークマン」から除外されていたが、本労働法典においては新たに18,000ルピーまでの監督業務従事者が「ワーカー」となる。また、従来は「ワークマン」の対象外とされることが多かった営業推進職も「ワーカー」に含まれることとなった。これにより、本労働法典における「ワーカー」としての保護対象が拡充した。
(4)契約労働(Contract Labour)の制限
原則として「中核的活動(Core Activities)」において契約労働者を雇用することが禁止されることになった。「中核的活動」とは、事業所が本来の目的として行っている主要な業務を指す。ただし、事業所内で行われていたとしても、清掃・衛生管理や警備、給食・食堂サービスなどは非中核的活動と見なされる。これによって、契約労働者の配置の在り方について、組織設計の見直しも必要となる。
(5)レイオフ・解雇等の規制と再雇用支援
レイオフや事業閉鎖に際して政府の事前許可が必要な工場の規模が、従来の従業員数「100人以上」から「300人以上」へと引き上げられた。また、雇用主は解雇される労働者のため、15日分の最終賃金相当額を政府の基金に拠出する義務が課されることになった。
(6)苦情処理委員会の設置義務
従業員20人以上の事業所では、雇用主と労働者の代表が同数(なお、労働者の代表については、事業所の女性比率と同じ割合以上の女性代表を置く必要がある。)で構成される苦情処理委員会(Grievance Redressal Committee)の設置が義務付けられた。委員会の決定には、労働者代表の過半数の合意が必要となる。
(7)賃金支払いのタイムライン
賃金は合意したタイミングで支払う必要があるほか、退職・解雇・辞職の場合、雇用主は労働者に対して未払い賃金を「2営業日以内」に支払わなければならない。従来は、解雇された場合にのみ当該ルールは存在し、かつこのルールも形骸化していたが、今回の改正では解雇を含むすべての離職の場合に、2営業日以内の支払が義務付けられることとなった。
これに対応するため、企業は、給与計算や退職手続きのプロセスの迅速化が求められる。
(8)ギグワーカー・プラットフォームワーカーの保護
インドで初めて、ギグワーカーやプラットフォームワーカーが社会保障の対象として定義された。プラットフォーム企業(アグリゲーター)は、彼らのための社会保障基金への拠出が義務付けられる。
(9)その他の義務事項
- 採用通知書: すべての労働者に対し、書面による採用通知書の発行が義務付けられた。
- 有期雇用(Fixed Term): 正社員との待遇の公平性が求められ、1年以上の勤務で退職金(按分計算)の受給権が発生するようになった。
- 女性の夜間勤務: 本人の同意と安全対策の確保を条件に、夜間シフト(20時〜6時)での就業が可能となった。
- 残業の同意: 労働者に残業をさせるには、本人の同意が必須となった。
3.総括と今後の対応
今回の労働法典の施行は、インドの労働規制における歴史的な転換点と言われており、詳細な規則の確定を待つ必要はあるものの、日本企業は、①報酬体系の精査(「賃金」の定義変更に伴う、積立基金(PF)や退職金、休暇買い取り費用への財務的影響の評価)、②内部規程の見直し(就業規則(Standing Orders)、残業、夜間勤務、退職手続きに関するポリシーのアップデート)、③ガバナンスの強化(苦情処理委員会の設置や、契約労働者の使用状況の再点検)等が必要となる。
今後はインドの中央政府だけでなく、各州政府による具体的な通知や運用についての動向も注視していく必要がある。
以上
TMI総合法律事務所 インド・プラクティスグループ
茂木 信太郎/小川 聡/山田 怜央
info.indiapractice@tmi.gr.jp
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