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【中国】【実案】【重要裁判例シリーズ】9 侵害訴訟中に被疑侵害者が権利無効の抗弁を行った事例
2023.12.05
はじめに
中国の知的財産権侵害訴訟では、「権利無効の抗弁」は認められておらず、被疑侵害者が対象権利の無効を主張する場合、必ず無効審判を請求して無効審決を得る必要があります。
しかし、本件一審の広東省深圳市中級人民法院は、権利者の実用新案権が明らかな無効理由を有する状況において、被疑侵害者の「権利無効の抗弁」を受け入れ、権利者の訴えを却下する判決を下しました。これに対し、二審の最高人民法院知財法廷は、中国の現行の法制度では「権利無効の抗弁」は認められないことを確認して一審判決を取り消しつつ、明らかに安定性を欠く権利の行使を認めることは公平原則に反するとして、権利者の訴えを裁定で却下しました。
この本件二審裁定は、当事者が訴訟中に、将来の無効審判の結果に応じて相応の経済的補償を行うことを相互に事前承諾したこと、更に最高人民法院がそうした事前承諾を高く評価し、今後の侵害訴訟でも積極的に採用すべきと述べた点でも注目されました。
本件は、最高人民法院知財法廷の2022年典型判例20件にも選定されており、無効審判と侵害訴訟の並列問題に対する中国人民法院の姿勢・取り組みを示す裁定として、実務家の参考になる事例です。
事件情報
事件番号:(2022)最高法知民終124号
判決日:2022年6月
上訴人(一審原告):深圳市租電智能科技有限公司
被上訴人(一審被告):深圳市森樹強電子科技有限公司
被上訴人(一審被告):深圳市優電物聯技術有限公司
事案の概要
(1)本件の経緯
本件一審原告は、考案の名称を「動的パスワードUSBケーブル」とする中国実用新案登録第201720131230.0号(以下「本件実用新案」とする)の権利者です。
本件実用新案は、ホテルの客室内等で使用されるレンタル充電器に関するものであり、ユーザが携帯電話で設備上のQRコード等をスキャンしてレンタル費用を支払うと、ユーザの携帯電話機に、充電器を開錠するためのパスワードが送信され、ユーザは当該パスワードを用いて充電器を開錠して充電を行うことが可能です。そのため、従来の共有モバイルバッテリーのようにホテル側に充電・管理の手間がかからず、利用者も充電器を購入しなくてよいという利点を有します。
原告は、被告2社による充電ケーブルの製造・販売行為が本件実用新案権を侵害しているとして、侵害行為の停止と在庫及び金型の廃棄、及び、損害賠償金100万元の支払いを求めて、広東省深圳市中級人民法院に提訴しました。
(2)本件実用新案及び別件実用新案
本件実用新案の登録時の請求項1は以下の通りです(括弧内の符号は筆者が挿入)。
【請求項1】 動的パスワード付USBケーブルであって、 |
本件実用新案では、下図のインタフェース4に、充電のためにユーザの携帯電話機が接続されます。
【本件実用新案の図1】
また、原告租電社は、本件実用新案と同日に、考案の名称を「動的パスワード壁充電器」とするもう1件の実用新案登録出願第201720131124.2号(以下「別件実用新案」とする)を行っています。別件実用新案の登録時の請求項1は、上記図1のUSBコネクタ1が、下記図1のACコネクタ1及び電源アダプタ2に置き換わっている点を除き、本件実用新案と同じ構成を有します。
【別件実用新案の図1】
別件実用新案に対しては、2019年8月に進歩性欠如を理由とする無効審決が出され、北京市知的財産法院での審決取消訴訟を経て、審決確定しています。しかしながら、本件実用新案について、侵害訴訟提起前に知的財産局が発行した実用新案技術評価書は、本件実用新案が登録要件を満たすと結論づけるものでした。
主な争点に対する裁判所の判断
本件で注目された争点は、侵害訴訟における「権利無効の抗弁」の可否、侵害訴訟の裁判所が権利の有効性を判断できるか否か、及び、侵害訴訟と無効審判のタイミングのずれを解決するための当事者間の事前承諾の活用の3点です。以下、それぞれについて詳述します。
(1)「権利無効の抗弁」について
一審において被告側は、原告の別件実用新案の無効審決が確定しており、2件の実案新案登録に係る考案が実質的に同じであることを理由に、「権利無効の抗弁」を行いました。一審裁判所はこの抗弁を認め、原告の訴えを却下する判決を下しました。一審の判決文には、この点について、「このような状況においても、被告が別途無効審判を提起しその後の行政訴訟手続きを行うことを要求した場合、明らかに当事者の紛争解決コストを増大させ、司法及び行政資源を消耗させ、人民の紛争解決ニーズを満たすことができない。上述の状況を総合的に考慮すると、権利者が侵害行為の訴追の根拠としている本件実用新案権は、明らかに専利権の保護を受けるべきでなかった考案に属するか、又はその可能性が極めて高いため、専利法の保護する合法的な権益に属さず、両被告の専利権無効の抗弁は成立する。」と記載されています。
一審判決に不服とした権利者は、最高人民法院知財法廷に上訴しました。二審では、中国の現行の法制化では「権利無効の抗弁」は認められていないとして、一審判決を取り消しつつも、権利者による訴えを裁定で却下しました。中国における「判決」と「裁定」の位置づけの違いは、日本で言う「本案判決」と「訴訟判決」のそれに近いものと言われます。中国の裁定事項には、民事訴訟法第157条第1項に挙げられた請求不受理の裁定、管轄異議に対する裁定、訴え提起を却下する旨の裁定等があります。
二審裁定では、一審被告の主張した「専利権無効の抗弁」について、専利法や司法解釈で規定された抗弁事由ではなく、中国の司法理論や実践において広く認知されてもいない、被告が独自に命名した抗弁に過ぎないと指摘しています。その上で、被告の主張の真意は本件実用新案権の安定性が不足している点にあり、「専利権無効の抗弁」という用語は慎重に用いるべきであって、代わりに「専利権安定性の抗弁」と呼ぶことが考えられる、と述べています。
最高人民法院知財法廷のこの指摘は、「権利無効の抗弁」という名称が広く使用されることで、この種の抗弁が、いわば既成事実化する形で中国の侵害訴訟に取り入れられていく事を警戒しているように思われます。もっとも、二審裁定では、知的財産局において係争対象専利権の無効審決が確定した際などに、被疑侵害者が真の意味の「専利権無効の抗弁」を行うことは否定しない、と補足しています。
(2)侵害訴訟における権利有効性の判断について
次に、二審裁定では、専利侵害訴訟において、人民法院は、権利の安定性に関し一定の限度内で審理することができると明言しています。その理由は、権利濫用の禁止は、信義誠実の原則に基づくものであり、例えば、請求の範囲が明らかに不明確で権利範囲を画定できない場合や、他人の先行する合法的な権利を侵害して専利権を獲得した場合等の権利濫用となり得る場合にまで、被疑侵害者が提起する権利濫用又は専利権安定性の抗弁を審理せず被疑侵害者に侵害責任を課すのは、明らかに公平原則に反し、発明創造の奨励に資するものではない、というものです。
しかしながら、現行の中国の法律の枠組みでは、専利権の有効性はあくまで知的財産局が判断するものであるため、侵害訴訟において、被疑侵害者の提起する専利権安定性への疑義又は抗弁に対し人民法院が判断できるのは、専利権者が正当且つ合理的に権利行使する根拠を有するか否かに過ぎず、対象専利権の効力そのものに疑義がある場合には、依然として無効審判を請求する必要がある、と述べています。
(3)侵害訴訟中に無効審判が提起された場合の訴訟進行について
二審裁定では、現行の専利法及び司法解釈に基づき、侵害訴訟中に専利権無効審判が提起された場合の扱いについて、以下のように整理しました。
A
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知的財産局の実体的判断を経て権利化された専利権(筆者注:発明特許、肯定的評価の技術評価書を取得済の実用新案権・意匠権等が該当すると思われる) →権利の安定性が比較的高いため、人民法院は通常、訴訟審理を継続し判決を下してよい。 |
B
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知的財産局による実体審査を経ていない専利権、又は無効審決を受ける可能性が比較的高いことを示す他の証拠のある専利権(筆者注:例えば、肯定的評価の技術評価書を取得していない実用新案権・意匠権等が該当すると思われる) →権利の安定性が相対的に不足しているため、状況により訴訟審理中止の裁定を下してもよい。 |
C
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知的財産局により下された無効審決が未だ法的に発効していない専利権(筆者注:無効審決後の審決取消訴訟係属中の専利権等が該当すると思われる) →権利の安定性が明らかに不足しているため、訴え却下の裁定を下してもよい。 |
D
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無効審決を受ける可能性が極めて高い証拠がある専利権であって既に無効審判が提起されている専利権 →権利の安定性が明らかに不足しているため、審理中止の裁定や、状況により訴え却下の裁定を下してもよい。 |
上記表のA~Cの類型については、既存の司法解釈において、その扱いが規定されているものです。特にCの類型のように侵害訴訟中に係争特許に無効審決が下された場合については、最高人民法院による2016年の司法解釈「専利権侵害紛争事件への法律適用に関する若干の問題の解釈(二)」第2条第1-2項に、以下のように規定されています。
最高人民法院2016年「専利権侵害紛争事件への法律適用に関する若干の問題の解釈(二)」 |
本件二審の最高人民法院は、Cの類型と実質的に極めて近い状況にある専利権について、新たにDの類型を創設しました。その上で、本件実用新案は、実質的に同内容を有する別件実用新案の無効審決が確定しており、本件実用新案に対する無効審判も既に請求されているため、上記Dの類型に属し、訴え却下の裁定を下してよいと判断されました。
しかしながら、この判断の前提には、以下(4)で詳述する当事者間の事前承諾が存在しています。そのため、今後の事例において当事者間の事前承諾がない場合に、Dの類型に対して速やかに訴え却下の裁定が下されるかには不明な点が残ります。
(4)侵害訴訟と無効審判の矛盾を解決するための当事者間の事前合意について
中国の侵害訴訟と無効審判との関係について、現行の専利法第47条第2項には以下の規定があります。
専利法第47条第2項: |
上記(3)に記載の通り、裁判所は、係争対象となる専利権の安定性に応じて、侵害訴訟を続行、中断又は裁定却下することができます。しかしながら、現行の規定及び運用では、上記専利法第47条第2項の規定があるために、例えば特許侵害訴訟の判決が執行されてから対象特許の無効審決が確定し、結果として、権利者が本来得るべきでなかった損害賠償金を得てしまう場合もあります。また、逆に、無効審判の結果を待つために侵害訴訟が長期化し、権利者が適切な時期に特許権の保護を受けられなかったり、被疑侵害者が製品製造の継続・拡大の判断ができなかったりするケースが発生し、問題になっています。
こうした侵害訴訟と無効審判のタイミングのずれの問題を解決する方策として、本件の両当事者は、特許無効審判の結果に応じ、相互に相応の金銭的補償を行うことについて、自発的に事前合意を行いました。具体的に、権利者は、無効審判又はその後の審決取消訴訟において権利無効の審決が確定した場合、上述の専利法第47条第2項に規定された「審決前に執行された侵害訴訟判決に対しては遡及効を有しない」との権利を放棄し、侵害訴訟により得られた全ての損害賠償金、訴訟費用、並びにそれらを得た日から返還日までの利息を被疑侵害者に返還することを承諾しました。逆に、被疑侵害者は、人民法院が裁定により本件侵害訴訟を中止したり、権利者の訴えを却下したりしたとしても、無効審判又は審決取消訴訟において権利有効の審決が確定した場合であって、その後の侵害訴訟において侵害成立の判決が下った場合には、侵害成立の判決で定められた損害賠償金、訴訟費用、並びに現在の侵害訴訟が中止又は却下された裁定の日から侵害成立の判決が定める日までの利息を、権利者に支払うことを承諾しました。
二審裁定では、このような事前承諾は、当事者が自らの権利及び期待される利益について自由意思に基づいて合意するものであって、法律規則に反しないばかりか、無効審判と侵害訴訟の並立問題に対する、公平で信義誠実の原則に沿った実効的な解決方法である、と高く評価しています。また、このような事前承諾があれば、人民法院が訴訟審理の続行、中止、訴え却下のいずれを選択した場合でも、当事者間の利益衡平を実現できるため、裁判所の訴訟進行にとっても有利であると指摘しています。
そのため、二審裁定では、「当院は、本件当事者の関連する承諾を認めるだけでなく、この場を借りて、専利権侵害事件の当事者が係争専利権の安定性に疑義又は争いがある場合に、公平及び信義誠実への配慮から、積極的に関連する利益補償の承諾又は声明を行うことを奨励する。この種の承諾又は声明は、双方向でも一方向でも、当事者の自由意思に基づくものであり、法律に違反せず両者の衡平に資するものでありさえすれば、肯定され奨励されるべきである。当院は、また、専利権侵害事件の一審裁判所が主体的に当事者に関連の説明を行い、積極的に類似の手法を試みることを希望する」と述べています。
コメント
本件裁定では、中国の知的財産権侵害訴訟では、少なくとも当面、「権利無効の抗弁」を認めないとの原則が確認されました。それと同時に、既存の司法解釈の適用範囲を拡大する形で、無効とされる可能性が極めて高い権利を行使された被疑侵害者に対し、侵害訴訟を裁定で却下できるという一つの救済策がもたらされました。本件で示された判断基準の適用範囲や影響力には未知数の部分がありますが、侵害訴訟を扱う裁判所が権利の有効性について判断しないという既存の体制に、一つの小さな風穴を開けたものとも言えます。
また、本件は、侵害訴訟と無効審判のタイミング問題を解決する新たな手法として、当事者間で将来の無効審判結果に応じた金銭的補償の事前承諾がなされた点でも、注目を集めました。二審裁定では、今後、このような事前承諾の取り組みを積極的に取り入れることを推奨し、一審裁判所に対しても、類似事件における積極的な採用を呼び掛けています。現実的には、侵害訴訟において、このような事前承諾が活用できるのは、本件のように無効審決が出される可能性が極めて高い状況下で審決を待たずに侵害訴訟の訴えを裁定で却下し、事件を迅速に処理したい場合等、特定の場面に限定されると考えられます。しかしながら、今後、このような事前承諾について、最高人民法院及び下級人民法院が、どのように導入を進めていくのかは注目に値します。
2021年の専利法改正で懲罰的賠償制度が導入され、法廷賠償金額が引き上げられたことからも明らかなように、中国政府は近年、知的財産侵害訴訟をめぐる体制及び法律の整備を急速に進めています。その作業には、無効審判と侵害訴訟の並立問題の解決策の検討も含まれます。本件の方向性とは別に、その解決策の一つとして注目されているのは、2019年12月から始められた同一専利権の無効審決取消訴訟と侵害訴訟とを、権利者、被疑侵害者及び知的財産局が一堂に会して併合審理する試みです。この併合審理は様々な形で試行されていますが、無効審判と侵害訴訟が並立する全てのケースに適用できるものではなく、中国人民法院は現状、無効審判と侵害訴訟の並立問題について、各国の手法を参考にしつつ、その解決策を模索している状況にあると考えられます。中国における知財侵害訴訟件数が増大し、日本企業が参加する訴訟件数も増加している現状において、この並立問題に対する中国人民法院の今後の動向が、更に注目されます。
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