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才口弁護士に聞いてみよう(12)
2021.08.04
TMIの顧問弁護士であり、最高裁判事の重責も務められた才口弁護士に聞く、現代の「仕事」と「生き方」のヒント。
先生がこれまでお仕事の内外でお会いになられた人たちの中で、「この人はすごい」と感じられた方のエピソードをお聞きしたいと思います。まずは、弁護士の方について、お聞かせいただけますでしょうか。
畏敬する先輩-故 高木新二郎弁護士
尊敬する人というより「畏敬する先輩」として故 高木新二郎弁護士との出会いからお別れまでの刎頸(ふんけい)の交わりを話します。
故高木新二郎弁護士(以下「先生」といいます)は、1935(昭和10)年9月生まれ、司法修習生第15期、3歳・3期先輩で倒産弁護士の道標かつ兄貴的存在でした。
出会いは大学4年生の秋、内定した就職先に不義理して応募した故 木川統一郎教授が主催する司法試験の研究団体「白鴻会」の入室試験の考査委員であったことに始まります。
先生は当時司法修習生で見るからにがらっぱちな方でしたが、修習の合間を割いて何くれとなく指導・訓育してくださいました。先生が受験勉強時代にコンパスの針先で太ももを刺して眠気を覚ましていたとの逸話は代々後輩に語り継がれていました。
先生の後塵を拝して東京弁護士会に登録し、“倒産”という職域で切磋琢磨することになりました。具体的には、1981(昭和56)年に弁護士会の法律研究部に「倒産法部会」を追加組織し、1986(昭和61)年には大阪弁護士会の“倒産”職域の有志と「東西倒産実務研究会」を発足させて丁々発止(ちょうちょうはっし)と議論を重ね、倒産法制の盲点や使い勝手の悪さを露呈させました。その結果が後の倒産法制改正の原動力になったことは明白です。
当時のメンバーの多くが法制審議会倒産法部会の弁護士会選出の委員・幹事となり「民事再生法」を創設し、会社更生法や破産法等の大改正に貢献したのです。
その端緒は先生の先見の明と発意に依るものであり、われわれは先生の片棒を担ぎ、あるいは掌で転がされていたに過ぎませんでした。
われわれは先生から倒産法制の大改正という目的達成のため周到な準備と人員配置の妙を目の当たりに学習し、その後の“倒産”職域活動に多大の恩恵を受けました。
こんな状況の中で特に不分明な「特別清算手続」について研究結果を著すことにしました。
1988(昭和63)年、部会や研究会で同士の多比羅誠弁護士と共著で『特別清算手続の実務』(商事法務研究会・刊)を上梓しました。先生は寸暇を割いて全文を校閲してくださり、刊行直前に「“索引”のない著作はない」と指摘され、慌てて“事項索引”を追補しました。今となって先生の行き届いた優しさを感謝します。
ちなみに同書の推薦の辞は、当時東京大学教授青山善充先生(現在当所顧問)から頂戴し、先生は、清算の手法が“くさり鎌”と評してくださいました。
このように倒産法の権威者として八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をされていた先生は、その年の秋、最高裁の法曹一元の動向を先取りして自ら弁護士任官判事第1号の旗手として突如裁判官に任官されたのです。翌1989(平成元)年、副会長の職にあった私は会長の名代で日弁連会長のメッセージを先生にお伝えしました。多分、任官後も弁護士時代のポーズそのままで訴訟指揮などをされたのでしょう。先生の風評を憂慮した会長のメッセージでしたが、先生は「分かった」と一言おっしゃられ、東京高裁判事を皮切りに山形地・家裁、新潟地裁所長を務め、最後は東京高裁部総括判事(裁判長)を歴任され、2000(平成12)年に約11年半の判事生活に別れを告げて退官されました。弁護士任官判事第1号の鑑であり、見事に法曹一元を実践されました。
任官判事退官後の高木先生
退官後、先生は弁護士に再登録されて愛弟子の松嶋英機弁護士の事務所に籍を置かれて縦横無尽の活躍をされました。先生のニックネームは“瞬間湯沸し器”、“モーニングコール”などで、私もその被害と恩恵を蒙りました。早朝6時に指示が出され、午前10時に事務所に参上して結論を導くという作業の連続です。訪問すると事務所の廊下まで響く罵声が飛び交っていました。そこで先生には臆せず淡々と語り、時には諭すのが結論を導くコツであると悟りました。用件を終えて辞去する際に、先生は必ずエレベーターまで見送られ、「ありがとう」、「面倒かけて申し訳ない」、「よろしく頼む」などとお礼と詫びを言われるのです。
そんな時、先生は邪気のない純真無垢な人であると見直し、これが大家の“光”と“影”と認識しました。
先生は退官後、更生管財人等を歴任して各種の企業を再建させ、2003(平成15)年には株式会社産業再生機構を設立し、産業再生委員長に就任して各種事件に関与されました。多くの仲間や後輩が馳せ参じて、企業再建に協力して恩返しをしました。
2004(平成16)年1月、私は青天の霹靂で最高裁判所判事に任ぜられました。
先生は弁護士任官判事の先輩として異文化の世界に赴く私の不憫を察し、司法研修所同期の故 滝井繁男及び泉徳治両先任判事にしかるべく道筋を立てておいてくださいました。身に余るこまやかな心配りを今更ながら感謝しています。
先生とは子弟あるいは恩人のような親交でしたが、気まずい関係になったことがあります。判事退官後の2010(平成22)年、「白鴻会」の同輩であった甲斐中辰夫元最高裁判事と日本航空株式会社の「コンプライアンス調査委員会」の正・副委員長を務めました。
当時、先生は民主党政権下に設置した「JAL再生タスクフォース」のリーダーとして奔走されていましたので、弟子の二人が調査委員会に関与したことが不満で何かと秋波を送ってこられました。子弟関係にあるとはいえお互いに平静を装い、適正に職務を遂行してJALの再建は実現しましたが、当時の政権交代が織りなす子弟間のほろ苦い経験でした。
先生との最後の面談は、2018(平成30)年6月29日、「白鴻会」の後輩で事務所のパートナーから弁護士任官した北澤純一判事(現東京高裁部総括判事)の富山地・家裁所長栄進祝賀会でした。先生は「弁護士任官判事は130人を超えたが、所長栄進第1番が自分で、北澤君が10番目だ。」と誇らしげでした。
この他にも先生にまつわるエピソードは枚挙に暇がありません。既往症克服の体力強化のためスキューバダイビングや極寒に犬ぞりに挑戦されたことなどです。
『アメリカ連邦倒産法』をはじめ、幾多の著作を上梓し、法学博士であり各種大学の教授を務められた先生は、2018(平成30)年8月19日、満83歳直前にお昼寝のまま末期を迎えられました。
私にとって故 高木新二郎弁護士は、“破天荒”にして“好々爺”の「この人はすごい」と感じた人でした。
完
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