ブログ
ケースから考えるスタートアップ法務 第1回:アメリカ①
2024.09.13
本ブログは、日米におけるスタートアップ、ベンチャーキャピタルに関するケース、裁判例を通じて、これらの分野における法務について考えることを意図したものです。
初回は、筆者がシリコンバレーで研修中ということもあり、アメリカのケースから取り扱いたいと思います。
スタートアップ業界における先進国であるアメリカでは、VC、スタートアップの業界に属している方であれば一度は耳にしたことがあるケース(裁判例)が複数存在します。その代表例が、今回取り扱うIn re Trados Inc. Shareholder Litigationです。※1
とある研究によれば、シリコンバレーにおけるスタートアップ・ロイヤー20人にインタビューした結果、ほぼ全員がこのケースについて知っているという結果が得られたそうです。 ※2
※1 In re Trados Inc. Shareholder Litigation, 73 A.3d 17 (Del. Ch. 2013)
※2 Abraham J.B. Cable, Does Trados Matter?, J. Corp. L. (2019)
事実関係
それでは本ケースの事実関係を見てみましょう。いわゆるベンチャー企業であるTrados(デラウェア法人)は、翻訳ソフトウェア・サービスの開発を手がけており、VCからも優先株式を用いて複数のラウンドにおいて出資を受けていました。Tradosの主要な株主の構成は概要以下のとおりです。
株主 |
持株比率 |
概要 |
複数のVC (シリーズA〜E優先株式) |
約40% |
総額$57.9mのLiquidation Preference |
創業者(普通株主) |
約12% |
― |
その他の普通株主 |
― |
原告、MIP ※3 が適用される経営陣を含む。 |
※3 Tradosにおいては、CEOを含むSenior Officersにインセンティブを与えるために、Tradosが売却された際に経営陣が優先株主及び普通株主に優先して対価を報酬として受け取るManagement Incentive Plan(MIP)が導入されていました。
また、Tradosの取締役の構成は以下のとおりです。
取締役 |
属性 |
独立CEO |
取締役会による採用 |
創業者 |
― |
取締役A |
VC1(優先株主)による指名 |
取締役B |
VC2(優先株主)による指名 |
取締役C |
VC3(優先株主)による指名 |
取締役D |
VC4(優先株主)による指名 |
取締役E |
外部取締役 |
この表の構成を見れば明らかなとおり、Tradosの取締役会のメンバーは、Tradosが買収された場合の対価の分配について優先権(Liquidation Preference)を持つ優先株主の指名した者が7名中4名(過半数)を占めていました。
Tradosの業績はVCの予想を下回っていたところ、Tradosの取締役会はTradosをSDLに総額$60mで売却する決定を行い、Tradosの株主によって必要な賛成数による承認がなされました ※4。
Tradosにおいては、M&A等のエグジットイベントが発生した場合、MIP及び優先株主に対して普通株主に優先して対価が分配される建て付けになっていました。そしてこれらの定めに従った結果、売却の対価は①MIP、②優先株主、③普通株主の順序で分配されることになりました。SDLへの売却に際しての、対価の分配の結果は以下のとおりです。
株主 |
持株比率 |
概要 |
分配額 ※5 |
複数のVC (シリーズA〜E優先株式) |
約40% |
総額$57.9mのLiquidation Preference |
②総額$52.2m |
創業者(普通株主) |
約12% |
― |
③0 |
その他の普通株主 |
― |
||
MIP |
― |
優先株主、普通株主に優先して対価が分配される建付け。 |
①総額$7.8m |
※4 優先株主が議決権の過半数を有していました。
※5 ①〜③は対価が分配された順序
優先株主への分配額は、Liquidation Preferenceの全額を下回るものの、優先株主が出資した金額以上になりました。その一方で、普通株主への分配額はなんとゼロになってしまいました。
そこで、普通株式の5%を保有する原告が、当該SDLへの売却の決定は、Tradosの取締役が負う信認義務(Fiduciary Duty)に違反するとして、Tradosの取締役を被告とする訴えを提起しました。
判示内容
デラウェア州の衡平法裁判所(Chancery Court)は、原告の保有する普通株式の価値はゼロであったとして、原告の請求を退けました。
裁判所の理由づけは概要以下のとおりです。※6
- 取締役は、優先株主の持つ特別な利益のためではなく、会社の価値を最大化させ、普通株主の利益を優先する義務を負う。普通株主の利益と優先株主の利益が相違する場面では、優先株主を普通株主よりも不適切に利することは取締役の義務違反になり得る。
- Tradosの取締役会のメンバーの過半数がSDLへの売却に関する利害関係を有しているため、その判断の適法性審査にあたっては、厳格な審査基準である完全な公正基準(Entire Fairness)が適用される。
- 完全な公正基準(Entire Fairness)が適用される場合、そのトランザクションについて、①取扱いの公正(Fair dealing)及び②価格の公正(Fair price)の観点から審査が行われる。
- ①取扱いの公正(Fair dealing)について、トランザクションの発端、交渉及びストラクチャー、取締役会・株主の承認のプロセス等を踏まえると、Tradosの取締役は普通株主の利益を真剣に考慮して行動したとはいえず、取扱いの公正(Fair dealing)は欠如していた。
- しかし、②価格の公正(Fair price)について、Tradosは普通株主に利益を生み出すほど成長することはできず、売却の前において普通株式は経済的価値がなかったため、普通株主への売却の対価の分配がゼロであったことは、価格の公正(Fair price)を充足する。
- ①と②を総合的に踏まえると、結論として、SDLへの売却に関して、完全な公正基準(Entire Fairness)のもとで取締役の信認義務(Fiduciary Duty)の違反は認められない。
※6 本ブログで取り扱う論点にフォーカスする趣旨で簡略化しています。
日本で同様の問題が起こりうるか
日本で企業が買収される際には株式譲渡の方法が用いられる場合が多いですが、日本のスタートアップないしはその株主が締結する契約においては、いわゆる「ドラッグ・アロング」権が規定され、特定の株主が他の株主に株式譲渡を強制することができる建て付けになっている場合も多く存在します。また、その際の対価の分配の方法については、みなし清算条項により、優先株主→普通株主の順で対価が分配される建て付けになっている場合が多いといえます。したがって、普通株主まで対価の分配が行き届かない価格での株式譲渡がなされる可能性はあり、実際、日本においても本ケースのように優先株主が主導して普通株主の満足しないエグジットがなされる事態は生じています。また、いわゆるカーブアウトのようなスタートアップの事業の一部が譲渡・承継される場合であっても、同様の問題が起こり得ます。
このような場面においては、株式譲渡に関する取締役会 ※7の承認等において、株式譲渡を推進したいVC等の優先株主から指名された取締役は、普通株主の利益を犠牲にして自らを指名したVC(優先株主)の利益を優先することが許されるのか、という複雑な義務の衝突問題に直面することも想定されます。
※7 取締役会設置会社においては、取締役会が株式譲渡の譲渡承認機関になるのが原則形態です(会社法139条1項)。
本ケースから得られる実務上のヒント
本ケースでは、裁判所が判示したとおり、Tradosの取締役には普通株主への配慮に欠けるところがありました。もっとも、売却の対価の分配は、あらかじめ定められたルールに従ってなされたものであり、売却の対価によっては普通株主への分配がゼロになってしまうことも多かれ少なかれ予測できたはずです。
したがって、スタートアップがエグジットを想定した契約を締結する際には、エグジット時の分配のされ方(いわゆるウォーターフォール)をしっかり理解して、それぞれのリスクを可能な限り把握することは、最低限やらなければならないことといえるでしょう。
また、契約条項の観点からは、株主間契約におけるドラッグ・アロング権やエグジットに係る事前承諾事項の交渉において、本ケースのような普通株主と優先株主の利益が対立する場面を想定することができればなお良いと言えますが、プラクティスはそこまでは至っていないのが実情と思われます。今後の実務の動向にも注意が必要です。
また、エグジットに関するイニシアティブを持つ株主としては、対価に不満を持つ株主から訴訟提起される可能性を頭の片隅におき、自己の指名する取締役を対象とした責任限定契約を締結する、買収に際して独立した委員会を設置する、第三者から買収対価に関する意見を取得する、不満を持ち得る株主と事前にコミュニケーションをとる、といった対応も検討に値するでしょう。
もちろん、日本法の下では取締役は株主に対する直接の義務を(MBOのような特殊な取引下や、間接的な公正価値の移転義務はともかくとして)負っていないため、取締役が株主に対する(レブロン義務のような)義務を直接に負担することがあり得る米国法の考え方とは少し異なった観点が必要になります。どちらかというと、VC等から派遣された取締役個人の利害相克、義務衝突の整理という問題に整理されるようにも感じていますが、日本法下において予め契約された内容を淡々と履行することが善管注意義務に違反すると考えられる場面とは相当に極端な場合かなというイメージもあり、例えばあるM&Aについて派遣元の利益が確保され普通株主に十分な財が行き渡らない場合に、その決定に悪意重過失があり429条責任を問える、という場合とはどのような場合か、といったことを詰めて考えてみたいなと思っています。
アメリカのケースを通じて日本の法務について考えるのは留学・海外研修の醍醐味ですので、次回もアメリカのケースを取り扱おうと思います。
Member
PROFILE