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不確実な状況におけるPCT出願の価値
2022.10.05
はじめに
外国で特許を出願するためには、PCT出願をした後に各国に移行するPCTルートと、パリ優先権を用いて各国に直接出願するパリルートがあります。ところで、PCTルートとパリルートのどちらを選べばよいのでしょうか?
PCT出願の要否の考え方として、4~5か国以上外国出願する場合は、PCTルートが得であるが、それ以下の場合はパリルートが得であるといった説があります。この考え方は、直接出願の費用が、国内移行の費用よりも高いという仮定を前提としています。しかし、実際には現在、直接出願の費用と国内移行の費用は、ほぼ同じです。したがって、同じ数の国に出願する場合、総費用はパリルートよりもPCTルートの方が必ず高くなります。
議論を単純化するために、本稿では、以下のようなモデルを考えます。
このモデルでは、出願人は日本(JP)出願から12月の時点にいて、米国(US)と中国(CN)に出願・国内移行しようとしていたとします。PCTルートの場合、まずPCT出願をし、その18月後にUSとCNの2か国に国内移行することになります。他方、パリルートの場合は、USとCNの2か国に直接出願することになります。
このとき、PCT出願の費用は40万円、1か国あたりの国内移行または直接出願の費用は100万円であるものと仮定すると、PCTルートの総費用は240万円になります。他方、パリルートの総費用は200万円で済みます。総費用だけで比べると、パリルートの方が合理的な選択であるように見えます。
しかし、本当にそうでしょうか?
出願人が優先日から30月の時点にきたとき、世界は、18月前に比べて、いろいろ変化します。例えば、出願にかかる商品が、米国のマーケットは順調に伸びていたが、中国からはビジネスを撤退しようとしているかもしれません。このようなとき、PCTルートであれば、米国のみ国内移行して、中国には移行しないことも可能です。このとき、PCTルートの総費用は140万円です。他方、パリルートの総費用は、変わらず200万円です。中国出願は無駄になってしまう可能性が高いでしょう。したがって、この場合には、PCTルートの方が結果的には合理的な選択であったことになります。
このように、PCTルートは、移行国を決めるための意思決定をパリルートよりも18月遅らせることができるため、将来の状況が不確実であっても、そのときの状況に応じた柔軟な対応が可能となります。他方、パリルートは、将来の不確実性に対応することができません。
この「将来の不確実性」を国内移行費用に織り込むことができれば、将来の不確実性も考慮に入れた上で、PCTルートとパリルートのどちらが経済的に見てより合理的であるかを客観的に比較できるようになります。
前置きが長くなりましたが、本稿では、将来の不確実性を織り込んだ国内移行費用の現在価値を算出することで、PCTルートとパリルートのどちらが合理的であるかを比較します。
現在価値と割引率
まず、将来の価値を、現在の価値に換算する方法について説明します。
ここでは、例えば、金利が5%であるとします。このとき、銀行に95.2万円預けると、1年後には利子が4.8万円(=95.2万円×0.05)ついて、合計100万円になります。すなわち、経済学的に見れば、1年後の100万円は、現在の95.2万円と等価であると言えます。金利は複利で働きますので、詳細は割愛しますが、1.5年後の100万円は、現在の92.5万円(=100/(1+0.05)1.5)と等価になります。このように、将来価値を、ある金利(ここでは5%)で割り引くことによって、現在価値を算出することができます。この割り引き計算に用いられる金利のことを割引率といいます。
次に、割引率について説明します。
仮に、以下の3種類の金融商品を考えてみます。
A:1年後に必ず100万円手に入る商品。
B:1年後に90%の確率で111万円手に入るが、10%の確率で0円になってしまう商品。
C:1年後に1%の確率で1億円手に入るが、99%の確率で0円になってしまう商品。
これら3つの商品は、1年後に手に入る金額の期待値は、いずれも同じ100万円です。しかし、リスクが異なります。Aはリスクが無く100万円が手に入ります。銀行に預ける場合とほぼ同じです。これに対し、Bは少しリスクがありますが、得られる金額はAよりも大きいです。Cは宝くじのようなハイリスク商品でであり、大半は外れですが、当たると大きいです。これら3つの商品を、あなたは、いくらなら買うでしょうか?
直感的には、Aが一番高く、次にBが高く、Cは一番安いことが予想できるかと思います。実際には、3つの商品の金額は市場原理で決まりますが、例えば、Aが95.2万円、Bが90.9万円、Cが55.5万円といったイメージでしょうか。このとき、割引率に換算すると、それぞれAは5%、Bは10%、Cは80%になります。これは、信用の高い人には低金利で融資するのに対し、貸し倒れリスクがある人には高利で融資するのと同じ原理です。
例えば社債の場合、発行主体の格付けが高く信用が高いものは、倒産リスクが低く、利回りも低くなるのに対し、発行主体の格付けが低く信用が低いものは、倒産リスクが高くなり、割引率も高くなります。
このように、現在価値に割り引くための割引率は、将来に対するリスク、すなわち不確実性に連動します。一般に、将来に対するリスク・不確実性が低い場合には、割引率も低くなり、リスク・不確実性が高い場合には、割引率も高くなります。リスクに応じて上乗せさる割引率のことを、リスクプレミアムとも言います。
それでは、適正な割引率をどの程度でしょうか?
「アーリーステージ知財の価値評価と価格設定」(R.ラズガイティス著、菊池・石井監訳)という書籍には、スタートアップからIPOまでの投資機会について、この本の著者が、技術に投資するベンチャーキャピタリストとしての経験をもとにまとめた、リスクとそれに対応する収益率に関する表が紹介されています。この表によれば、経験則ではありますが、低リスクと評価された会社であれば、資金調達レート(すなわち割引率)は20~30%が適正であると考えられることが分かります。
リスクの特徴 |
企業の資金調達レートの範囲 |
リスクフリー |
10~18% |
特別の低リスク |
15~20% |
低リスク |
20~30% |
中程度リスク |
25~35% |
高リスク |
30~40% |
非常な高リスク |
35~45% |
極端な高リスク |
50~70%またはそれ以上 |
「アーリーステージ知財の価値評価と価格設定」菊池・石井監訳175頁より引用
PCTルートの現在価値
それでは、国内移行費用の現在価値を求めてみましょう。
国内移行する各国ごとの割引率をそれぞれrnとして、18月後の100万円(国内移行費用)を現在価値に換算すると、100/(1+ rn)1.5万円になります。したがって、PCTルートにおける総費用の現在価値は、{40+100/(1+ r1)1.5+100/(1+ r2)1.5}万円になります。
割引率rnは、どのように設定すればよいでしょうか。PCT出願の国内移行の要否を考える上で考慮すべきリスクとしては、次のようなものがあります。
① 移行国のカントリーリスク(政治的、文化的なリスク)
② 出願人である会社やビジネス領域に起因するリスクや(倒産、事業部再編、トレンド等)
③ 出願した発明が属する技術に起因するリスク(他の技術に置換されるリスク等)
これらのリスク(不確実性)を考慮して、出願した発明のリスクが低い場合は割引率を低く、リスクが高い場合は割引率を高く設定します。
例えば、割引率が10%であれば、国内移行費用100万円の現在価値は86.6万円になります。このとき、PCTルートの総費用の現在価値は213.2万円になります。これは、パリルートの総費用の現在価値200万円よりも高いので、割引率が10%程度のリスクであれば、パリルートの方が経済的に見て合理的であることになります。
割引率が16%であれば、国内移行費用100万円の現在価値は80万円になります。このとき、PCTルートの総費用の現在価値は200万円になります。これはパリルートの総費用の現在価値と同じですので、割引率が16%のリスクであれば、PCTルートとパリルートのいずれも経済的に見て同じです。
割引率が30%であれば、国内移行費用100万円の現在価値は67.5万円になります。このとき、PCTルートの総費用の現在価値は175万円になります。パリルートの現在価値の総費用よりも安いので、割引率が30%程度のリスクであれば、PCTルートの方が経済的に見て合理的であることになります。
このように、2か国に出願する場合は、割引率16%がPCTルートとパリルートを決める分岐点になります。この割引率16%というリスクは、上記の表に当てはめると、「特別な低リスク 15~20%」に相当すると思われます。上記表はスタートアップなどの会社を評価する際の割引率ですので、出願の評価にそのまま当てはめることはできません。しかし、上述のとおり、出願リスクは、会社リスクに加えて、カントリーリスクや技術リスクも含まれるため、一般には会社リスクよりも出願のリスクの方が大きくなることが予想されます。そうすると、割引率16%に相当する出願のリスクは、上記表と同じように「特別な低リスク」と考えてよいように思われます。
最後に、出願国数と割引率の関係を示します。単純化のため、割引率はどの国でも同じrであると仮定します。このとき、出願国数をnとすると、各ルートの総費用の現在価値は、次のようになります。
PCTルートの総費用の現在価値:40+{100/(1+ r)1.5}×n(万円)
パリルートの総費用の現在価値:100×n(万円)
以下の表は、パリルートの総費用の現在価値から、PCTルートの総費用の現在価値を引いた数値です。赤字の領域はパリルートの現在価値が低く、パリルートを選択する方が合理的な領域です。他方、黒字の領域はPCTルートの現在価値が低く、PCTルートを選択する方が合理的な領域です。
この表から、将来の不確実性が高くなるほど、PCTルートの価値が相対的に高まることが分かります。出願国が2か国以上の場合は、多くの出願においてPCTルートの方が経済的に見て合理的です。また、出願国が1か国だけの場合でも、将来の不確実性が非常に高い場合(割引率に換算して40%以上の場合。例えば、非常にカントリーリスクが高い国に出願する場合)は、PCTルートが合理的です。
また、PCTルートの場合、優先日から12月の時点では予定していなかった国に国内移行することもできます。今回のモデルでは、そのような場合が組み込まれておりません。このような場合を盛り込んだモデルで考えれば、PCTルートの実際の価値は、より高まるものと考えられます。
まとめ
以上のとおり、将来の不確実性が高くなるほど、PCTルートの価値が相対的に高まります。これは、不確実な状況下では、PCT出願によって移行国の意思決定を遅らせることができるというオプションとしての価値が高まるからとの解釈も可能です。外国出願をする際には、PCTルートとパリルートの総費用を単純に比較するのではなく、総費用の現在価値を比較することで、将来の不確実性を織り込んだ客観的で合理的な意思決定をすることができるようになると思われます。
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