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EU給与透明化指令:在仏企業に求められる新たな報酬ガバナンス
2026.03.26
EU給与透明化指令(Directive (EU) 2023/970)[1]の加盟国における国内法化期限が2026年6月7日とされています。同指令は、2023年5月10日にEUで採択され、男女間賃金格差の是正を目的として、報酬の透明化や情報開示を強化する制度を導入するものです。
もっとも、フランスでは現在、この指令を国内法化するための法律の内容が政府と労使団体の間で協議されている段階にあります。近時の報道によれば、政府は期限までの国内法化は難しいとの見通しを示しており、実務上は2027年1月頃からの施行を見込む向きが強まっています。また、議論の中では、法律の成立後、企業に一定の適合期間(約1年程度)を設ける可能性も指摘されています。
他方で、公式にはなお2026年6月7日が国内法化期限とされているため、企業としては立法の遅れを前提に構えるのではなく、準備を先行させておくことが重要です。
本稿では、EU給与透明化指令の概要を整理したうえで、フランス企業に求められる主な対応と、在仏日系企業が現時点で意識しておきたい実務上のポイントについて解説します。
[1] https://eur-lex.europa.eu/eli/dir/2023/970/oj?locale=fr
採用時の給与レンジ開示は制度の入口にすぎない
本制度について語られる際、まず注目されるのは、採用段階における報酬情報の開示です。企業は、採用候補者に対し、当該ポストの報酬または報酬レンジに関する情報を、遅くとも面接前までに提示する必要があります。また、候補者の現在または過去の給与履歴を尋ねることも認められなくなります。採用時の処遇は、候補者の過去の給与水準ではなく、そのポスト自体の内容や位置づけに基づいて決められるべきものになります。
もっとも、こうした採用段階における透明性の確保は、制度の入口にすぎません。本制度が最終的に求めているのは、「このポストの報酬額はいくらか」という情報を示すことだけではなく、報酬制度全体を客観的かつ性中立的な基準に基づいて説明できる状態にすることです。採用時の提示額を開示していても、その後の昇給、昇進、手当、変動報酬、福利厚生といった報酬要素の設計が一貫した基準で説明できなければ、制度の趣旨に沿った対応とはいえません。企業に求められるのは、個々の金額そのものよりも、その金額がどのような基準と考え方に基づいて決定されているのかを説明できることです。
この点は、在仏日系企業にとって特に重要です。現地法人における採用条件や昇給判断が、日本本社の判断や長年の慣行に大きく依存している場合、フランス側でそのロジックを十分に説明できないことがあります。しかし今後は、採用段階で提示する報酬についても、当該職務の位置づけ、報酬レンジの設定根拠、そしてレンジの中で当該候補者にその金額が提示される理由を一貫して説明できることが重要になります。採用時の透明化は、それ自体がゴールなのではなく、企業の説明責任の出発点と捉える必要があります。
職種を超えて比較される「同一価値労働」
給与透明化指令への対応で最も難しい論点の一つは、「同一労働」だけでなく、「同一価値労働」に対しても平等報酬が求められる点です。これは、単に同じ役職名や同じ部門に属する従業員同士を比較するという意味ではありません。肩書きや職種名が異なっていても、求められる技能、責任、業務上の負荷、労働条件といった客観的な要素を総合的に見た結果、同等の価値を有すると評価される職務であれば、比較対象となり得ます。制度の狙いは、職務分類や報酬決定の仕組みに潜む性別バイアスを可視化し、是正することにあります。
日系企業の実務感覚からすると、この概念はかなり広く感じられるかもしれません。たとえば、営業職とバックオフィス職、事務職と技術職、店舗運営担当と管理部門担当など、一見すると異なる職種に見える組み合わせであっても、必要とされるスキルの水準、判断責任の重さ、業務負荷、勤務条件を丁寧に見ていくと、比較対象となり得る場合があります。もちろん、常に同価値と評価されるわけではありませんが、少なくとも「職種が違うから比較できない」という説明だけでは十分ではなくなります。企業としては、各職務をどのような基準で評価し、その結果としてどのような等級や報酬レンジに位置づけているのかを説明できる必要があります。
ここで問題になるのは、多くの企業で職務評価や等級設計が必ずしも十分に文書化されていないことです。特に、本社主導で報酬が決められている場合や、長年の慣行の中で給与差が形成されてきた場合には、現地で「なぜこの職務はこの等級なのか」を明確に説明できないことがあります。しかし、給与透明化指令の下では、その曖昧さ自体がリスクになります。比較可能なカテゴリーごとに、職務の価値づけと報酬設計を客観的基準で整理しておくことが不可欠です。給与透明化への対応は、突き詰めれば、職務評価と等級設計を改めて整備することにほかなりません。
報酬制度に求められる説明責任
前述したとおり、給与透明化指令の下では、労働者は自らの報酬や比較可能な職務カテゴリーの報酬水準について情報を請求できるようになります。また、企業は、報酬水準やその進展を決定する際に用いている基準を、労働者が確認できる状態にしておく必要があります。これは、従来のように企業の内部で報酬ロジックを開示しないまま運用することが難しくなることを意味します。
フランスにはすでに職業上の平等指数などの制度があり、男女間の賃金格差を測定・公表する仕組みは一定程度整備されています。給与透明化指令が求めているのは、企業単位の数値指標の公表にとどまりません。個々の労働者の視点から見て、自分の報酬がどのような基準で決まり、同じまたは同価値の職務を担う他のカテゴリーと比べてどのような位置づけにあるのかを、後から説明できる状態を整えることが求められます。
このような説明責任を果たすためには、就業規則や報酬規程を整備するだけでは十分ではありません。等級表、職務記述書、評価シート、昇給理由の記録、例外的処遇の根拠など、個々の判断の裏づけとなる資料を体系的に整備しておくことが求められます。とりわけ実務上重要なのは、「説明できる制度」と「説明できる運用」の両方が求められる点です。制度上は客観的な基準が用意されていても、実際の運用が属人的な裁量に大きく依存していれば、紛争時にその合理性を説明することは難しくなります。給与透明化指令は、制度だけでなく、その運用についても説明責任を求める制度といえます。
男女間賃金格差の報告義務と是正措置
給与透明化指令は、一定規模以上の企業に対し、男女間賃金格差に関する報告義務も導入しています。実務上、読者が最も気にする点の一つは、「自社はいつから対象になるのか」という点でしょう。現時点のEU指令上のスケジュールは、次のとおりです。
- 250人以上の企業:2027年から毎年報告
- 150人以上249人以下の企業:2027年から3年ごとに報告
- 100人以上149人以下の企業:2031年から3年ごとに報告
ここで重要なのは、報告義務が単なる書類提出にとどまらない点です。男女の平均報酬差が 5% を超え、その差を客観的かつ性中立的な要因で正当化できず、合理的な期間内に是正されない場合には、企業は労働者代表と協力して共同評価を行い、必要な是正措置を講じることが求められます。
つまり、この制度は「数字を提出すれば終わり」という仕組みではありません。報告された数値に問題が表れている場合には、その原因を分析し、改善につなげることが求められます。経営の観点から見ると、5%という数値は、今後の内部点検の一つの重要な目安になります。
在仏日系企業にとって注意すべきなのは、この5%が会社全体の平均差だけで判断されるものではない点です。分析は、比較可能な職務カテゴリーごとに行われます。そのため、全社平均では大きな差が見えなくても、特定の職務カテゴリーや等級に絞ると説明の難しい差が現れることがあります。全社平均だけを見て安心するのではなく、比較単位ごとのデータも早い段階から点検しておくことが重要です。
制裁と紛争対応のルールの変化
給与透明化指令には、違反時の制裁も予定されています。EU指令は、加盟国に対し、違反に対して実効的、均衡的かつ抑止的な制裁を設けることを求めており、その中には罰金も含まれます。また、被害者に対する完全な賠償や、違反行為の停止・是正を命じる仕組みも想定されています。企業にとっては、単なるレピュテーションリスクにとどまらず、法的・金銭的リスクとして本制度を捉える必要があります。
もっとも、実務上さらに重要なのは、紛争時の立証ルールが変わる点です。いわゆる「立証責任の転換」により、紛争になった場合には、企業側が「この給与差は差別ではなく、職務内容や責任の違い、経験、評価結果などの客観的な理由に基づくものです」と説明し、証明する場面が広がります。とりわけ、企業が給与透明化に関する義務を十分に果たしていない場合には、企業側が不利な立場に置かれやすくなります。つまり、これからは労働者が問題提起をするだけでなく、企業側が説明材料を提示できるかどうかが紛争の結果を大きく左右します。
実務的に言い換えると、今後のリスクは「差があること」そのものだけではありません。より大きいのは、「なぜ差があるのかを説明できないこと」です。たとえば、ある職務カテゴリーにおいて男女間で報酬差が見られた場合に、企業側が、その差は経験年数、評価結果、担当範囲、責任の重さなどの客観的な要因によるものだと資料に基づいて説明できれば、防御の余地があります。しかし、そうした資料やルールが整っていなければ、企業は極めて不利になります。給与透明化指令は、紛争時の守り方そのものを変える制度でもあるのです。
在仏日系企業が今すぐ着手すべき準備
在仏日系企業にとって重要なのは、最終的なフランス国内法の成立を待つことではなく、今の段階から準備に着手することです。まず有効なのは、性別ごとの給与データを仮集計し、説明の難しい乖離が存在しないかを確認することです。特に、比較可能な職務カテゴリーごとに見たときに5%を超える差が存在しないかは、早期に把握しておくべきポイントになります。
次に、職務記述書や等級表の有無と内容の精度を点検する必要があります。各ポストについて、求められる技能、責任、負荷、労働条件を客観的基準に沿って整理できているかを確認し、必要に応じて見直すことが求められます。文書が存在しているだけでは十分ではなく、実際の職務価値を説明できる内容になっているかが重要です。
さらに、採用、人事、現地経営陣、必要に応じて日本本社も含めた横断的な対応体制を整えることも欠かせません。給与透明化指令への対応は、人事部門だけで完結するものではなく、報酬決定や昇給判断のガバナンス全体に関わる問題だからです。
フランスでは国内法化の具体的スケジュールに一定の不透明さが残っているものの、制度導入の方向性自体はすでに明確になっています。給与透明化指令は、給与レンジ開示だけの制度ではなく、報酬制度全体の説明責任を再構築する制度です。在仏日系企業にとっては、職務評価、等級設計、報酬決定、データ管理、紛争対応といった仕組みを総点検する契機として捉えるべきテーマといえるでしょう。


