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才口弁護士に聞いてみよう(13)
2021.09.01
TMIの顧問弁護士であり、最高裁判事の重責も務められた才口弁護士に聞く、現代の「仕事」と「生き方」のヒント。
前号に続き、先生がこれまでお会いになられた人たちの中で「この人はすごい」と感じられた方のエピソードをお聞きしたいと思います。
今回は、弁護士以外の方について、お聞かせいただけますでしょうか。
先達の言動などから“心のよすが”を学ぶことは貴重です。65歳にして異文化の法曹の世界に赴いたわが身を振り返り、故四元義隆先生との出会いとその人となりを語ります。
故 四元義隆先生との出会い
故四元義隆先生(以下「先生」という。)は、1908(明治41)年から2004(平成16)年まで明治、大正、昭和、平成の四世代を生き抜かれ、歴代首相指南役などと称された人物ですが、評論家の田原総一朗氏をして「この人物には資料というものがまるでない」といわしめた方です。
先生との出会いは、2003(平成15)年、先生が会長の職にあった三幸建設株式会社(以下「三幸建設」という。)の会社更生手続の申立の依頼に始まります。先生は当時95歳の高齢のため、実権を長男義大氏に委譲していました。申立書を作成する過程で、同社の前身は武装共産党を指導した田中清玄氏(1906〔明治39〕年~1993〔平成5〕年・87歳没)が第二次世界大戦の敗戦直前に横浜に設立した「合資会社神中組」で、戦前は軍需工場の地下工場建設工事等を、戦後は復興のための農業土木工事や米軍基地の建設工事等を請け負い、1955(昭和30)年に先生が興銀の中山素平頭取に請われて債務を引き継いで承継したいわく付きの会社であることが判明しました。
社歴と関係役員が特異な会社更生事件とあって、百戦錬磨の東京地方裁判所民事第8部(商事部)も二の足を踏んだのですが、先生については申立代理人が全責任を負うとの条件の下に手続きは開始され、申立から丁度満1年後の2004(平成16)年4月27日に異例のスピードで更生手続を終結して会社は再建されました。スポンサーの選定等につき先生の格別の尽力があったことはいうまでもありません。ちなみに、当時の主任裁判官は、名古屋高等裁判所長官を最後に退官されました。他方、私は更生手続の真っ只中である2004(平成16)年1月6日、青天の霹靂(へきれき)で最高裁判所判事に就任したので、同社の申立代理人の職責を全うしたとはいえません。
判事在任中、判事室の応接の壁面に桑材の額縁の扁額『施無畏』(写真参照)を懸架して職務を遂行しました。揮毫(きごう)の主は先生で、判事就任直後にお祝いとして拝領した逸物です。
『施無畏』とは「三施の一。衆生の種々の畏怖の心を取り除いて安心させ救済すること。観世音菩薩の異名」(広辞苑)です。先生は、判事就任にあたり、裁判官の“心のよすが”を処世訓として伝授してくださったものと理解し、日々、大量の記録と格闘しながら任期を全うしました。
四元義隆先生の人となり
先生は、西郷隆盛翁と縁続きの家柄で鹿児島出身です。1932(昭和7)年2月9日の“血盟団事件”に東大法学部在学中に連座して懲役15年に処せられ、1940(昭和15)年2月恩赦により出所しました。また田中清玄氏は、1930(昭和5)年に武装共産党を指導し、警官とピストルでわたりあって治安維持法違反で逮捕され、無期懲役の判決を受け、1941(昭和16)年4月に出所しました。
先生と田中氏は、服役していた小菅刑務所での同輩で、在監中に山本玄峰老師(1866〔慶応2〕年~1961〔昭和36〕年・96歳歿)の講話を聴かれた仲であり、出所後、玄峰老師が再興した三島の龍澤寺で老師の下できびしい修行をされたのです。
太平洋戦争は、1945(昭和20)年8月9日、御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、同月15日、国民への玉音放送(終戦の紹)を以って事実上日本国の敗戦となりました。
玄峰老師とともに先生と田中清玄氏は終戦に向け大活躍をされたのです。
同年4月7日、昭和天皇に請われて鈴木貫太郎氏(2・26事件で襲撃され重傷を負った当時の侍従長)が内閣総理大臣に就任しました。軍部独裁に批判的であった玄峰老師は鈴木首相に無条件降伏を密かに勧告し、内閣秘書官であった先生は首相がポツダム宣言受諾の御前会議に至るまで身を挺して受諾反対の陸軍勢力と抗戦されたのです。老師と首相の会談の結果、本土決戦や戦勝国による日本の割譲統治は回避されたといわれています。
このような史実を知ったのは、先生から『施無畏』を拝領し、執務の合間に“資料に乏しい”先生の人となりをそこはかとなく調べた結果です。先生は鎌倉円覚寺の朝比奈宗源菅長とのご縁で同寺の塔頭“蔵六庵”にお住まいでした。いつの日かお礼のご挨拶に参上する心積もりでいたところ、先生は私が判事に就任した年の6月28日、忽然と96歳で逝去されました。礼節を欠き痛恨の極みであります。かたや扁額『施無畏』は時と処を得て、退官の直前まで約4年間心の支えとして判事室に鎮座していましたが、退官後は、先生の終焉の地である円覚寺の閻魔堂を終のすみかとしてもらうことにしました。
退官して半年後の2009(平成21)年3月24日、春まだ浅い鎌倉円覚寺を訪れ、閻魔堂において扁額『施無畏』と再会しました。名刹の参禅者を静かに見守る相応しい居住まいでした。閻魔堂には弓道場があり、住職の須原耕雲和尚が卒寿を迎えた身でありながら門弟に熱心に弓の稽古を指導されていました。静寂の中の厳粛な所作と弦音と矢音に魅了されて直ちに入門を乞い、以来、毎週水曜日の早朝から恥を忍んで稽古に励んでいます。
以上が故四元義隆先生をめぐる扁額『施無畏』縁起の一部始終です。
世が移ろい、コロナ騒動で政治・経済が混迷を極めていますが、先生は黄泉の国からどんな指南をしてくださるのかと思いを馳せる今日この頃です。
余談
余談ですが、先生が引き継がれた「三幸建設」の命名は玄峰老師であり、出典は天・地・人の三つの幸いのいわれにあります。
また、『施無畏』について先生は、幕末・明治の政治家で無刀流の創始者山岡鉄舟居士に関して、1966(昭和41)年8月18日“無畏”と題して以下のように記されています。
『山岡鉄舟居士に或人が問うた「無刀流の極意如何」と、居士答えて曰く「浅草観音様にあずけてある」と。今日も尚浅草観音堂の正面に鉄舟居士の雄渾な「施無畏」の大額が不滅の真理を語っている』
どうぞ、下町巡りの折に参拝しながらご確認ください。
蛇足ながら、当事務所の23階第5応接室の壁面に大きな扁額『敬天』が懸架されています。
薩摩の偉人西郷隆盛翁が西南戦争の出陣に際して揮毫(きごう)した『敬天愛人』の前節です。
先生が鹿児島の尚古集成館に展示されている原本を複写された作品の一点です。
先生のご子息から拝領し、鹿児島出身の当事務所の田中克郎代表に献上した逸品です。
ちなみに第5応接室は「敬天の間」と称されています。
完
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