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【労働法ブログ】人的資本開示の拡充に向けた人的資本政策の狙い再確認➀
2025.12.25
2026年3月期からの人的資本開示の拡充
2023年3月から有価証券報告書において人的資本の情報開示が義務付けられて以降、上場会社において人的資本の開示が進んでいます。
もっとも、人的資本の情報開示が義務付けられているとはいっても、開示が義務付けられているのは「人材育成方針」と「社内環境整備方針」、そしてこれらに関する指標と目標とされているのみであり、極めて抽象的な内容であることから、各社において開示の充実度には大きな差がある状況です。
このような状況を受け、金融庁は更なる人的資本の開示の充実を図るため、2026年3月期の有価証券報告書から以下のような開示府令改正を行う予定です。
① 新たな開示項目
- 企業戦略と関連付けた人材戦略及びそれを踏まえた従業員給与等の決定方針
- 従業員の平均給与の対前年比増減率
- (提出会社が主として子会社の経営管理を行う会社(持株会社)である場合)連結会社(外国会社を除く。)のうち、従業員数が最も多い「最大人員会社」(最大人員会社の従業員数が、連結会社(外国会社を除く。)の従業員の過半数を超えない場合には、次に従業員数の多い会社も含む。)の従業員給与の平均額、その前年比増減率等
② 「従業員の状況」の記載箇所の異動・内容の変更
- 「従業員の状況」を「第1【企業の概況】」から「第4【提出会社の状況】」に移動した上で、使用人その他の従業員のみを対象としたストックオプション制度や役員・従業員株式所有制度を導入している場合には、「従業員の状況」に記載することもできることとする
もっとも、この人的資本開示の充実は、これまでの人的資本政策の狙いを転換するものではなく、むしろ、これまでの人的資本開示において充実度に大きな差があり、必ずしも人的資本政策の狙いに沿った開示が十分になされていない例が多く見られることから、より政策の狙いを実現していくものであるといえます。
したがって、これまで既に人的資本政策の狙いに沿った開示を進めてきた企業にとっては大きく対応の負担はないであろうと思われます。
他方で、これまで形式的な対応にとどまり、人的資本政策の狙いを踏まえていない開示にとどまっていた企業にとっては対応が必要となることが予想されます。
そこで、本稿では、経済産業省で人材版伊藤レポートの策定を担当した筆者が、2回にわたり人的資本経営政策の課題背景と狙いを解説します。
人的資本政策の狙い
まず、人材版伊藤レポートが前提としている我が国の課題を確認しておきましょう。
⑴ 第四次産業革命の影響
人材版伊藤レポートがまず挙げている課題は、第四次産業革命による経済構造の変化です。
世界はこれまでに3度の産業革命を経験しており、特に第三次産業革命の下では、ジョブローテーションを得意とする日本企業は諸外国に比して失業者数を抑えることができたといわれています。
しかしながら、第四次産業革命の下では、外部環境の変化スピードが極めて速く、かつ、変化が非連続であることから、日本企業が得意とするジョブローテーションでは対応が難しく、かえって遅れをとっていると指摘されています。
⑵ 労働市場の両極化
次に、上記⑴とも関連しますが、第四次産業革命は、競争の在り方をコスト競争から付加価値獲得競争へと変え、まさに「人」でなければできないようなきめ細かなサービスや、創造的な業務が重要となり、人材需要にも影響を及ぼしています。
実際、米国では、下図のように労働市場の両極化(polarization)が進んでいます。

(出典)「成長戦略実行計画」(令和元年6月21日)
同様の状況は日本においても見られ始めています。

(出典)「成長戦略実行計画」(令和元年6月21日)
⑶ イノベーションの欠如による労働生産性の低下
こうした第四次産業革命による大きな産業構造の変化のなかで、日本はなかなか労働生産性を挙げられていない状況にあり、OECD平均を下回る状況が続いています。
政府は、その要因は日本企業が付加価値(すなわち、労働生産性算定の分子の部分)を生み出せていないことにあると考えています。
このことは米国企業と比べて日本企業の「マークアップ率」が低いことから示唆されています。
「マークアップ率」というのは、分母をコスト(限界費用)、分子を販売価格とする分数であり、製造コストの何倍の価格で販売できているかを見るものです。
まず、米国企業を見てみると、マークアップ率が低い企業が減少し、マークアップ率が8倍もの企業が登場しています。

(出典)「成長戦略実行計画」(令和元年6月21日)
他方で、日本においては、マークアップ率が高い企業が増加していない状況です。

(出典)「成長戦略実行計画」(令和元年6月21日)
⑷ 労働生産年齢人口の減少と人生100年時代による就労観の変化
そして、社会的な課題として労働生産年齢人口の減少も大きな課題です。
長らく少子高齢化が叫ばれているところではあるが、日本の人口は減少局面に入っており、2060年には、全人口のうち労働生産年齢人口(15歳から65歳)は約半数のみとなることが推測されています。
したがって、そもそも量的に「人材」がいなくなっている状況にあります。
そのような労働生産年齢人口減少局面において、さらに人生100年時代の到来により、若年層を中心に、一社で働き続けたいと思わない人や、ジョブローテーションを受けるのではなく専門性を身に着けたい人、ワークライフバランスを重視したい人、副業・兼業をしたい人等が増え、働く人々の就労観自体に変化が生じており、そのような人材の獲得・定着をいかに図るかという点も問題になっています。
⑸ 人的資本政策が前提とする課題の整理
上記を整理すると、第四次産業革命によって付加価値の源泉が「物」から「人」に移っているなかで、日本では付加価値を創出できておらず、その結果、労働生産性がなかなか向上しない状況にあります。したがって、まず、多様な人材がその能力を発揮することによってイノベーションを生み出すことが重要となります。
また、労働生産年齢人口の減少によって、そもそも「人」が減少し、優秀な人材を惹きつけることも難しくなっている状況にあり、まさに「人材」が企業の持続的な成長を左右する重要な要素となっています。
このように、日本企業を取り巻く環境の変化を受け、経営上の課題と人材戦略上の課題とが密接に関連するようになっています。
これらのことが、人的資本政策が捉えている課題であり、人的資本政策が何を狙った政策なのかを理解する上で極めて重要なポイントとなります。
日本企業の現状
上記のような課題背景があるなかにおいて、日本企業の現状についてみておきましょう。
⑴ 経営戦略と人材戦略の連動の現状
まず、日本企業の人事部門の課長以上の方に対して行われた人材マネジメント上の課題についてのアンケートでもっとも回答が多かったのは、「人材戦略上が経営戦略と紐づいていない」という点でありました。

(出典)パーソル総合研究所「タレント・マネジメントに関する実態調査」(HITO REPORT 2019年10月号)より
また、経営戦略と人材戦略を連動させるための重要な役割を果たすことが期待される「CHRO」(Chief Human Resource Officer)の設置については、近年増加傾向にあるものの、人材版伊藤レポート策定当時においては、多くの日本企業ではCHROが設置されておらず、また設置の予定もない企業が多い状況でした。

(出典)日本の人事部「人事白書2021」より作成
⑵ 個人と組織の関係性
個人と組織の関係性について見ても、海外諸国に比べると日本は「エンゲージメント」(この概念については本連載で別途扱う予定です。)が圧倒的に低い状況にあります。
下図は、人材版伊藤レポート策定時点でのデータですが、現在においても特段の変わりはない状況です。

(出典)GALLUP「State of Global Workplace2017」より
その他、日本では今の会社で長く勤務したいと思っておらず、他方で、転職も起業もする意思もなく、そのために学ぼうともしない状況にあるというデータもあり、決して個人と組織の関係性が良いとは言い難い状況にあります。
⑶ 人材戦略に関する資本市場との対話の状況
冒頭述べたとおり、経営戦略上の課題と人材戦略上の課題が密接に関連しているとすると、投資判断においても人材戦略の観点が重要となってくることが考えられますが、機関投資家はどのような人材関連情報を考慮しているのかを見てみると、最も多いのは「労働関係法令違反の有無」であり、次に「人材育成・教育訓練の取り組み」です。そして、その次に多いのは、「特にない」であり、機関投資家の中には、人材関連情報を考慮していない機関投資家も相当数存在しています。

(出典)独立行政法人労働政策研究・研修機構「企業の人的資産情報の『見える化に関する研究』(2018年12月)より
なお、筆者が人材版伊藤レポートの策定を担当していた頃に企業側、機関投資家側からヒアリングをすると、企業側からは「機関投資家から聞かれないから人材について対話していない。」との声があり、一方機関投資家側からは「企業が開示しないので人材について対話していない。」という声が聞かれたのは印象的でした。
人的資本政策の課題背景
上記を整理すると、経営戦略上の課題と人材戦略上の課題とが密接に関連しているにもかかわらず、日本企業ではこれらが連動しておらず、さらに個人と組織の関係性も悪化しており、イノベーションが生まれにくい状況にあります。
また、人材戦略に関する資本市場との対話も、企業側、機関投資家側の双方が積極的ではない状況にあるといえます。
次回は、前回及び今回で解説してきた人的資本政策の課題意識と日本企業の現状を踏まえ、人的資本政策の狙いと全体像、そしてよく聞かれる誤解について解説します。
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