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【労働法ブログ】人的資本開示の拡充に向けた人的資本政策の狙い再確認②
2026.01.30
はじめに
前回は、人的資本政策の始まりとなったいわゆる「人材版伊藤レポート」の課題拝見について解説しました。
今回も前回に引き続き、人材版伊藤レポートの策定を担当した筆者が、前回解説した課題背景を踏まえて、人材版伊藤レポートないしは人的資本政策が何を狙っているのかを解説し、人的資本政策の全体像について解説します。
人的資本政策の狙い
前回解説したとおり、我が国を取り巻く外部環境の変化から、経営上の課題と人材戦略上の課題とは密接に関連するに至っています。しかしながら、経営戦略は外部環境に照らして変化しているものの、人材戦略については日本型雇用慣行の下で硬直化してしまい、経営戦略と人材戦略とが乖離してしまっているという課題があります。
そのため、人材版伊藤レポートは「経営戦略と人材戦略の連動」の重要性を示し、これにより持続的に企業価値を向上させることを狙いとして策定されました。

(出典)経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」第1回事務局資料
中には、「人材版伊藤レポートはジョブ型雇用を推進する狙いである。」、「人材版伊藤レポートは日本型雇用慣行を変えるために策定された。」とする解説も見られます。
しかし、このような理解は、完全外れているわけではないものの、正確ではありません。
確かに、我が国の外部環境の変化を踏まえると、多くの日本企業には変革が求められる可能性があります。また、その結果、いわゆるジョブ型雇用の導入ということも考える必要が出てくるかもしれません。
実際、人材版伊藤レポートにおいても、ジョブ型雇用は重要なキーワードになり得るとしていますが、人材版伊藤レポートが狙いとしているのは、あくまで「経営戦略と人材戦略の連動」です。
したがって、経営戦略上、日本型雇用にメリットがあると判断し、メンバーシップ型雇用を保持するという判断を否定しているわけではありません(現に、人材版伊藤レポートの最終報告前の素案ではジョブ型雇用への移行をより強調していましたが、委員の方の議論を踏まえ最終版ではトーンダウンしています。)。
人的資本政策の全体像(「人的資本経営の実践」と「人的資本の開示」)
次に、人的資本政策の全体像を見ていきましょう。実は、人的資本に関して質問等を受けるなかで、この全体像が理解されていない場合が多く、人的資本に関する解説でも全体像が踏まえられていないものも見られます。
前提として、人的資本政策は、大きく「人的資本経営の実践」と「人的資本の情報開示」に分けられます。
前者の「人的資本経営の実践」は、企業においてどのように経営戦略と人材戦略の連動を図っていくかという内部での戦略構築と実行であり、この指針となるのが、経済産業省の「人材版伊藤レポート」(2020年9月)及び「人材版伊藤レポート2.0」(2022年5月)です。
次に、後者の「人的資本の情報開示」は、「人的資本経営の実践」について資本市場(や労働市場)との対話を図るものであり、この指針となるのが、内閣官房の「人的資本可視化指針」(2022年8月)です。
企業にとっては、開示に関心が寄りがちですが、人的資本可視化指針で示されている下図のとおり、人的資本経営の実践と人的資本の情報開示は、双方を一体として進めることで相乗効果を生むものであり、「車の両輪」として進めていくべきものとさ、まずは開示の前提であり、人的資本政策の狙いである「経営戦略と人材戦略の連動」(人的資本経営の実践)をより先行させるべきでしょう。

(出典)内閣官房「人的資本可視化指針」(2022年8月)
価値協創ガイダンスの参照が不可欠
上記のとおり、人的資本経営の実践と人的資本の情報開示の観点からは、人材版伊藤レポート、人材版伊藤レポート2.0及び人的資本可視化指針が参考すべき指針等となります。
しかし、忘れてならないのが、「経営戦略」の観点です。なぜなら、上記のとおり、人的資本政策の狙いは、「経営戦略と人材戦略の連動」を図ることであるので、「経営戦略」全体の中における人材戦略の位置づけを明確にする必要があるからです。
そして、この点に関する指針となるのが、経済産業省の「価値協創ガイダンス」にということになります。
価値協創ガイダンスは、経済産業省の(人材版でない)「伊藤レポート2.0」と共に公表されたものであり、人材に限らない経営課題全体について企業と投資家との対話の共通言語を示したものです。人材版伊藤レポート、人材版伊藤レポート2.0が策定された後、2022年8月には「伊藤レポート3.0」と「価値協創ガイダンス2.0」が策定され、人的資本への投資や人材戦略の重要性をより強調する構成へと見直しがされています。
このような「伊藤レポート」本体の動きがあるなかで、経営課題全体の中で、冒頭述べたとおり人的資本の重要性が高まっていることから、“人材版”の伊藤レポートが策定されたのです。
人材版伊藤レポート策定側からすると、上記のような構造のもとで政策を作っていたところであり、それぞれのレポートや指針においても、他のレポート、指針も相互参照すべき旨が明記されておりますが、実はこの全体的な構造を理解されているケースは非常にまれであり、残念ながら人的資本経営に関する解説でも価値競争ガイダンスに言及している例は少ない印象です。
しかし、人的資本政策の狙いが「経営戦略と人材戦略の連動」であるとすると、人材戦略の視点だけではない経営戦略の議論として対応していく必要があります。
そのため、人材版伊藤レポートは、人事部門に向けたレポートではなく、下図のように、取締役会や経営陣に向けたレポートとして策定されており、コーポレート・ガバナンスとしての視点も加えられています。このことは、人材版伊藤レポート2.0において、人材版伊藤レポートについては、「第1は、コーポレート・ガバナンス改革の文脈で捉える…レポートは 2021 年6月に公表された「コーポレートガバナンス・コード」の改訂に反映された。同改訂で、「人的資本への投資と開示」が強調されるに至ったのである。」とはっきりと書かれています。

(出典)経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書~ 人材版伊藤レポート~」(令和2年9月)
人的資本政策の狙いを踏まえた対応を
前回解説したとおり、2026年3月期の有価証券報告書から人的資本に関する開示の拡充が行われます。
しかし、前回と今回の記事をご欄いただければ、今回の開示拡充は、元々政策として狙っていたところをより推進するためのものであることが理解いただけるかと思います。
したがって、これまで既に人的資本政策の狙いを踏まえた対応をしてきた企業においては、特段大きな対応が発生する可能性は低いと思われます。
他方で、これまで形式的な開示にとどまってきた企業においては、改めて人的資本政策の狙いを踏まえた対応が必要になるでしょう。
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