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【シンガポール】雇用契約上の黙示の相互信頼義務(最新判決Prashant Mudgal v SAP Asiaのポイント)
2026.05.13
はじめに
シンガポール高等法院は、Prashant Mudgal v SAP Asia Pte Ltd [2026] SGHC 15において、雇用契約上、使用者と従業員との間に相互の信頼関係を維持すべき黙示の義務(implied term of mutual trust and confidence)が存在することを確認しました。
本件では、雇用契約上、会社が通知により従業員を解雇する権利を有していたものの、直ちに契約上の解雇権を行使するのではなく、従業員に対して業務改善計画、いわゆるPerformance Improvement Plan(以下「PIP」といいます。)を実施した上で従業員を解雇したところ、裁判所は、このPIPについて、実際には従業員に改善の機会を与えるものではなく、解雇という結論があらかじめ決まっていた手続、すなわち茶番であったと判断し、会社側に従業員との間の黙示の相互信頼義務違反があると判断しました。
事案の概要
原告は、あるチームリーダーを「重大な無能」、「部下を支える能力がない」等と非難したり、強い表現を含むメールを送付したりして、同僚との関係に問題を抱えていました。また、同氏は、組織内で対立線を引くように、「あなたはあなたの担当部分を処理し、私は私の担当部分を処理する」と述べていました。こられの行為に対し、会社は謝罪を求めたものの、同氏はこれを拒否しました。
その後、会社は、原告を解雇する方針を固めました。2019年3月、会社は同氏を45日間のPIPに置きました。PIPは同年5月に終了しましたが、会社は同氏が単に「改善しているように見せかけている」にすぎないと考え、解雇の方針を固め、同年中に同氏を解雇しました。これに対し、原告は、約500万シンガポールドルの損害賠償を求めて訴訟を提起しました。
裁判所の判断
裁判所は、シンガポールの雇用契約においては、使用者と従業員との間に黙示の相互信頼義務が存在しており、本件では、会社がこの相互信頼義務に違反していると判断しました。
重要なのは、裁判所が、原告の解雇自体を問題視したわけではないという点です。問題とされたのは、会社がPIPという形式をとりながら、実際には同氏に真の改善機会を与えていなかったことでした。裁判所は、同氏の解雇は既に「あらかじめ決まっていた」ものであり、同氏は「屠殺場に連れて行かれる子羊のように」導かれたと述べています。特に、会社内部のメールが決定的でした。PIP開始前から、会社内では原告を「外す」ことについて意見が一致しており、その手続を「迅速化」する意図が示されたメールが交わされていました。また、PIP期間中にも、同氏の上司は「できるだけ早く彼を事業から外したい」というメールを送付していました。さらに、裁判所は、会社のPIP関連の記録について、定期的な面談記録、評価記録、正式なPIPの結果記録等が十分に残されていなかったため、「shoddy」、すなわち粗雑であったと指摘しました。
もっとも、会社には、雇用契約上、同氏を解雇する権利があったため、原告は、この相互信頼義務違反によって実質的な損害が発生したことを立証できませんでした。その結果、原告に認められたのは、名目的損害賠償としての1,000シンガポールドルにとどまりました。
実務上の示唆
本判決は、シンガポールの雇用実務において重要な意味を有します。
第一に、雇用契約上、相互信頼義務が存在することが明確に確認された点です。使用者は、合理的かつ正当な理由なく、信頼関係を破壊し、又は深刻に損なうような行為をしてはなりません。これには、従業員に対して、耐え難い又は全く受け入れ難い態様で対応しない義務も含まれます。
第二に、形だけのPIPは、契約に基づき端的に雇用を終了する場合よりもかえって法的リスクを高め得るという点です。PIPは従業員に改善の機会を与えるための手続ですので、PIPを実施するのであれば、会社は、従業員に対して実質的な改善機会を与え、評価プロセスも誠実に行う必要があります。解雇という結論が決まっているのであれば、会社としては、PIPという外形を整えるのではなく、契約に基づき、契約に基づき端的に雇用終了を検討する方が適切な場合があります。あらかじめ結論の決まったPIPやその他の手続は、本来であれば回避できたはずの責任を発生させる可能性があります。
第三に、記録化の重要性です。PIPや懲戒手続、評価手続を実施する場合には、手続が真に公正かつ誠実に行われたことを後から説明できるよう、記録を残しておくことが重要です。例えば、面談記録、評価結果、改善状況に関する記録、最終判断に至った理由の記録等が考えられます。これらの記録は、最終的に裁判所で精査される可能性があります。
第四に、実質的な損害賠償の立証は依然として容易ではないということです。裁判所における通常の不当解雇(wrongful dismissal)の損害額は、原則として、会社が適法に通知をしていれば従業員が受け取ることができた金額、すなわち通知期間中の給与又は通知手当に相当する金額に限られるのが基本です。本件で名目的損害賠償にとどまったのも、会社が契約に基づいて適法に通知を行った上で同氏を解雇していたためです。
第五に、契約上の解雇権は引き続き有効に機能するという点です。使用者が、契約上、通知又は通知手当の支払いにより雇用を終了する権利を有している場合、その権利自体は制限されるものではありません。但し、その権利行使に至る過程において、相互信頼義務に反する対応を行わないように留意する必要があります。
最後に、通常の裁判所における判断と、雇用関係の紛争を専門に取り扱うEmployment Claims Tribunal(以下「ECT」といいます。)における不当解雇の判断枠組みが異なる点にも留意が必要です。本判決は、通常の裁判所とECTにおける制度上の違いを改めて示すものといえます。ECTでは、たとえ契約上の権利に基づく雇用終了であっても、不当解雇と判断される可能性があります。また、補償額には上限があるものの、通知手当に限らず、収入喪失や解雇の態様によって生じた損害が考慮される可能性があります。
おわりに
シンガポールは、伝統的には比較的使用者に有利な法域と理解されてきました。しかし、近時の雇用法制・実務の流れを見ると、そのバランスは徐々に変化しつつあります。今後は、競業避止義務等の制限的誓約に対する厳格な審査、整理解雇に対する当局の関心の高まり、さらにWorkplace Fairness Act 2025の施行に向けた差別防止の動き等、使用者による雇用管理にはより慎重な対応が求められる場面が増えていくと考えられます。本判決において、雇用契約上の相互信頼義務の存在が確認されたことも、このような流れに整合したものと考えられます。
本稿は、Simmons & Simmons JWS Pte. Ltd.が執筆した記事(https://www.simmons-simmons.com/en/publications/cml7scxy8005uuh5shy2nsol4/singapore-recognises-the-implied-term-of-mutual-trust-and-confidence)を翻訳したものであり、弊事務所又はSimmons & Simmons JWS Pte. Ltd.がシンガポール法に関するアドバイスや法的意見を提供するものではありません。

