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才口弁護士に聞いてみよう(11)
2021.07.01
TMIの顧問弁護士であり、最高裁判事の重責も務められた才口弁護士に聞く、現代の「仕事」と「生き方」のヒント。
先生は弁護士になられてから4年後に独立され、ご自身の事務所を立ち上げられているかと存じます。当時と今では弁護士を取り巻く状況はだいぶ異なると思いますが、弁護士になった以上は、少なくとも、いつでも一人で仕事をやっていくことができるという気概をもって過ごすべきだと思います。先生はどのような思いで独立に至ったのか、独立されたときのお気持ちなどを教えてください。
独立とは「弁護士道の人間として通用する証」
独立は「弁護士道の人間として通用するほどになっている」という証です。
居候弁護士(通称「イソ弁」)の初任給が月額5万円時代の独立の気概を追憶します。
イソ弁は丸の内の長老事務所で2年間勤めました。証拠の登記簿謄本を鉄筆とカーボン紙で作成するのも職務の一部でした。その後、銀座の縁戚の弁護士事務所でじっくりと仕込まれ、2年間の修行を経て同事務所の仲間であった司法研修所19期の篠崎芳明弁護士と共同事務所を開設しました。彼は後に日弁連の民暴委員長を務め、浜松の反社勢力を一掃して勇名を馳せました。共同事務所を2年で解消し、当時、東京都弁護士協同組合の役職を務めていた関係で、販促に協力して愛宕山弁護士ビルの一室の分譲を受けて完全独立しました。今から半世紀前、遅まきの三十路の初頭の事です。
倒産弁護士として
独立は単に自分の事務所を持つことではなく、「弁護士道の人間として通用する証」ですから行程は多事多難でした。エキスパートあるいはスペシャリストへの修練・体得の時期です。
倒産弁護士のジャンルに入ったきっかけは、旧商法の会社整理の整理委員を務めたことと会計帳簿等が存在しない会社の破産管財人に選任されたことにあります。会社整理の申立代理人は故 本林譲弁護士(元最高裁判所判事)であり、無帳簿会社の破産管財人を選任されたのは佐藤歳二弁護士(元裁判官・TMI総合法律事務所顧問)でした。加えて、東京弁護士会副会長として渉外を担当し、東京三会及び裁判所、並びに検察庁の多くのお歴々と知己を得たことが倒産事件を生業とする弁護士として通用することになった由縁です。
顧みれば、いわゆる倒産弁護士として多くの管財人等を務め、司法試験考査委員(破産法)や法制審議会倒産法部会委員として、民事再生法等の立案・修正に関与し、倒産弁護士として初めて最高裁判事に任命され、無事任期を務めあげられたのもその端緒は前記のとおり些細な事件処理が始まりでした。その間、親にもらった丈夫な身体とモットーである“不断”(絶え間のない努力)の心意気で戦い抜いた弁護士・判事通算55年の法曹人生です。
時世と形態が異なる現在の組織の下ではパートナー就任は、まさに独立に相当します。
専門性と独自性を涵養(かんよう)して「弁護士道の人間として通用する証」を早期に獲得してください。
完
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