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才口弁護士に聞いてみよう(14)
2021.10.01
TMIの顧問弁護士であり、最高裁判事の重責も務められた才口弁護士に聞く、現代の「仕事」と「生き方」のヒント。
「本」というものは、先人の知を伝え、人の生き方を問い、新しい発見をもたらし、ときとして、我々の人生に大きな影響を与えるものかと思います。これまで先生が読まれてきた書籍で、先生の人生や仕事に大きな影響を与えたものがありましたら、私も読んでみたいと思います。ぜひおすすめの書籍を教えてください。
齢(よわい)満83歳、半世紀を超える法曹人生の道すがら「影響を受けた本」は数少なくありません。私の読書法は多読・乱読にして調査読で一貫性のないのが欠陥です。
中学生時代と裁判官時代に「影響を受けた本」にまつわる話をします。
◇ 中 勘助 著『銀の匙』
太平洋戦争敗戦直後の混乱期から復興期に中学生時代を過ごしました。書籍が乏しく学校の図書館が頼りでした。幸いにも担任の国語教師がいろいろ手ほどきをしてくださいました。教師の毎日10ページの漢字練習(ドリル)の宿題には閉口しましたが、私に中勘助著の『銀の匙』を渡して、「1年間かけて熟読せよ」との宿題を出してくださいました。
『銀の匙』は、著者が幼少年時代の思い出をもとに、少年の目で捉えた美的世界を清潔な文体で構築された物語です。また、著者は私の郷里である長野市の北東に位置する避暑地である野尻湖(最近、湖底よりナウマンゾウの化石が出土したことで有名)畔で孤高の生活を送られた方とのことで意欲が湧きました。
前篇の書き出しは、「私の書斎のいろいろながらくた物などをいれた本箱の抽斗に昔からひとつの小箱がしまってある。・・・・・・そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。」とあります。
この銀の小匙は、病弱だった主人公が伯母さんに育てられ、幼いころ薬を飲むために使った匙です。伯母さんに連れられて行った神田明神の祭礼や、閻魔様の縁日や、友達と遊んだ少林寺のお寺などの四季折々の風情と、主人公の感性が磨かれた幼年期から17歳までの成長の模様が美しく哀切に描かれ、伯母さんとの離別、兄との確執や恋物語などに展開します。
前篇の最後は「これはもう二十年も昔の話である。私はなんだかお惠ちゃんが死んでしまったような気がしてならない。そうかとおもえば今でもお惠ちゃんが生きていておりふしそのじぶんのことなど思いだしてるような気もする。」と結んでいます。
また、後篇は、癇癪もちで生徒の頭をぶつ中沢先生が大好きで、「御苦労にも家の庭にある棕櫚の枝をとっては痛い思いをするために新しい鞭を先生に与えた。」から始まりますが、感涙にむせぶのは、16歳の春に目が不自由になった伯母さんを訪ねていった時のくだりです。
「私は伯母さんが家にいたじぶんのことを思いだし汚い針山から一本の木綿針をぬきとってあしたの仕事のために糸をとおしておいた。」・・・「私たちは互いに邪魔をしまいとして寝たふりをしていたけれども二人ともよく眠らなかった。翌朝まだうす暗いうちにたった私の姿を伯母さんは門のまえにしょんぼりと立っていつまでも見おくっていた。」とあります。
そして、後篇の最後は、17歳頃の友人の姉との無言の別れが甘く美しく語られ、「頬のようにほのかに赤らみ、顎(あご)のようにふくやかにくびれた水密桃を手のひらにそうっとつつむように唇にあててその濃やかはだをとおしてもれだす甘い匂いをかぎながらまた新たな涙を流した。」と結んでいます。
思い起こせば、毎日ノルマをこなし200ページそこそこの作品を読破するのは難行苦行でした。それは、風鎮、印籠、根付、蓬莱豆、渋紙、状袋、皮籠、閼伽井、十万億土、台傘などのミチの字句や、名うての、コロリ、でろれん祭文、鎧どおし、フランネル、更紗、判の日、ぜんごなどの言いまわしです。漢字や意味を調べながら読み終えた感想は、甘酸っぱい作者の自叙伝のように思えました。もっとも、作者も随筆で「『銀の匙』はあのとおり読んではのどからしいものだけれども仕事は難行苦行であった」と記されています。
後年、『銀の匙』が“スロー・リーディング”読書法のモデルとして取り上げられていることや夏目漱石の『こころ』、『坊ちゃん』に次ぐ選書であることを知って改めて納得しました。
残念なことに、昨今、“自分の文章がまだるっこいのは、『銀の匙』の文章の言い回しの影響かもしれない”と思えるのです。
◇ 斎藤朔郎 著『裁判官随想』
青天の霹靂で着任した弁護士任官判事は、煩瑣にして繁忙な弁護士稼業から解放され、「すべての裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行い、この憲法及び法律のみに拘束される。」(憲法第76条3項)ものと意気揚々と職務に着手したのですが、その喜びは程なくして夢と消え去りました。
膨大な事件数と公務の遂行はやむを得ませんでしたが、早々に、「裁判官の良心」についての煩悶に遭遇したのです。尾高朝雄先生の『法の究極に在るもの』をはじめ、田中耕太郎元長官の論文、佐藤功先生の『憲法(ポケット註釈全書〔4〕)』に至るまで「裁判官の良心」の論考を必死に探索しました。その結果、斎藤朔郎元最高裁判事(1962〔昭和37〕年~1964〔昭和39〕年・元参議院法制局長)の『裁判官随想』(1966〔昭和41〕年有斐閣刊行・絶版)の中に「裁判官の良心」に関する詳述を発見しました。概略は以下のとおりです。
「条文では、すべての裁判官は、良心に従いその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束され、事実の認定、法令の適用、刑の量定のすべてを裁判官の良心に従って判断すればよいのである。しかし、良心には、主観的良心と客観的良心があり、裁判においては、容器は個人的なものであっても、容器に盛りいれる内容は客観的、かつ普遍的なものでなければならない。裁判官の主観には精神活動も含まれるから、主観的良心は、自由、広範囲、安易なものである。これに対して客観的良心は『裁判官としての、あるいは裁判官として持つべき良心』であり、裁判官において求められるものは客観的良心である。
裁判は裁判官のためにあるものではなく、国民のためにあるものであるから、裁判を受ける立場にある国民の側からして安心感の持てる良心でなければならない。
また、裁判官の在り方について、「裁判官は付和雷同してはいけない。事大主義を鼓吹しない。所信を表明するのに怯懦(きょうだ)であってはならない。紛争の解決は、裁判の場合は、訴訟制度に任せるべきである。合議の決定や上級審の判断に対して耳を傾けて反省と思索を重ねる雅量と謙虚さを持たなければならない。裁判では客観的良心の涵養が必要である。」と説かれていました。
正鵠を得た見事な論破で、目から鱗が落ち、思考と研鑽不足を悟った裁判官時代に「影響を受けた本」の筆頭の一冊です。
ちなみに、斎藤元判事は、往年、職務で中国に赴任し、帰国時に奥様と生き別れになった身の上の方で、「疑わしきは罰せず、訴訟促進の技術、法服論議、真実の発見、裁判の事実認定、ウソとの闘争」など多くの論考とエッセイを残されておられます。
最高裁判事在任中、幾多の殺人事件を担当しました。得手としない刑事事件の刑の量定で無期懲役か死刑の選択は責め苦の極みです。第一小法廷の強盗殺人事件で五人の判事の意見が分かれたことがあり、私は珍しく死刑相当の反対意見を述べました。
結語部分で「無期懲役の原判決の刑の量定並びにこれを是認する多数意見には、私が裁判官として関与した死刑事件の刑の量定との比較において、著しく公平・均衡を失するものであるから、到底同調することはできない」と判示しています。
しかし、原案は「多数意見には裁判官の良心にかけて到底同調することができない」というものでした。
「裁判官の良心」とは何かについて大いに悩み、調査・検討の結果、判示文言に訂正した経過とその結果をおくみ取り頂ければ元未熟判事の本望とするところです。
完
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