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才口弁護士に聞いてみよう(18)
2022.02.01
TMIの顧問弁護士であり、最高裁判事の重責も務められた才口弁護士に聞く、現代の「仕事」と「生き方」のヒント。
先生の訴訟に対する考え方を教えてください。訴訟とは、相手方(はもちろんのこと、その代理人弁護士を含めて)と戦う場ではなく、こちらも相手方も、裁判所に対し自らの言い分をいかに届けて理解してもらうかという営みである、という趣旨の考え方があり、私はその考え方に私淑(ししゅく)していますが、一方で、相手方(代理人)と徹底的に戦い、口頭弁論でまさに「言い合い」をすることを好むような弁護士もいます。唯一の正解があるものではないと思いますが、先生は、訴訟をどのようなものだと捉えていらっしゃいますでしょうか。
弁護士業務が複雑・多様化したため、われわれの立ち位置が判らなくなりつつあります。
紛争解決の基本に立ち返って訴訟手続について考えてみましょう。
近代国家は、私人が実力で権利回復を行う「自力救済」を原則的に禁止し、公の制度として紛争を解決する手続きを設置しました。国家が「裁判権」を行使し、法律的に権利救済や紛争を解決するために、当事者を関与させて審理・判断する制度が“訴訟”です。
訴訟は、犯罪事実を認定して刑罰を科する手続きである刑事訴訟、公権力の行使の適法性を確保するための行政訴訟もありますが、多くの者が関わる私人間の法的紛争を目的とする民事訴訟における「訴訟観」を主眼に考え、併せて、最高裁判事を務めた経験から裁判所から垣間見た「弁護士観」にも触れます。
ところで、私は本来訴訟弁護士ですが、主に“倒産弁護士”を生業(なりわい)としてきましたから、裁判所の裁量的判断による権利義務の具体的内容の形成を目的とする「非訟事件」を得手とした弁護士です。しかし、約5年間の判事経験で「訴訟観」や「弁護士像」を別の角度から見ることができました。
ご質問に対する私の回答は、あなたが私淑される『訴訟は裁判所で相手方と戦闘する戦場ではなく、依頼者の言い分を裁判所に理解してもらい、その正当性を認めてもらう紛争解決の場である』との「訴訟観」が相当であると思料します。
その理由は、訴訟は紛争解決のための最終手段であり、できれば国家が行使する裁判権は必要最小限度にとどめ、当事者間で万策を尽くして“和解”により円満解決をはかるのが近代国家の紛争解決の摂理であると考えるからです。
民法第695条〔和解〕を改めて読み返してみましょう。
『和解は、当事者が互いに譲歩してその間に存する争いをやめることを約することによって、その効力を生ずる。』とあります。実に簡にして要を得た妙なる条文です。
私法上の和解・裁判外の和解があり、示談もお互いに譲歩したものであれば和解です。
司法統計資料によれば、紛争解決のための訴訟比率は一割そこそこです。そして、下級審から上級審まで数十年を費やして獲得できるメリットは何でしょうか。当事者はお互いに精魂が尽き、残るのは徒労感や虚脱感です。
私は、在任中、法律審である最高裁において積極的に和解を勧試しました。
担当する調査官の人間性や裁判官の出番を見定めることが難しいですが、和解成立の時の当事者の爽快な顔色や雰囲気が未だに記憶に鮮明です。
ところで、あなたが例示された事件対応が抗戦的な本人や代理人も見受けられますが、あながちその言動や訴訟行為を咎めることができない事件もあります。例えば、累代の血縁・地縁に係る事件などです。感情的に如何ともし難いのです。また、代理人の場合は、集団訴訟等の目的意識のある紛争です。散見するアジテーター的訴訟や判例マニア訴訟は論外です。
総じて、抗戦的訴訟は実益が少なく、訴訟経済上も無駄と即断するのは早計でしょうか。
裁判所から垣間見た「訴訟観」や「弁護士観」を披露します。
散見する具体例は、証拠と主張の齟齬(そご)、単純事件の複雑化などです。その原因の多くは本人と代理人との紛争解決の意図の食い違いにありましたが、意外にも、本人と代理人との打ち合わせ不足に基因すると思われる事件もありました。代理人の資質や洞察力の研鑽と提出書面の緻密・的確性が望まれるところです。
最高裁は法律審ですから、上告事件等を却下又は棄却するのが通常です。しかし、弁護士任官判事としては、意図して早期の紛争解決を期待して比較的多数の「原審差し戻し」を言渡し、差戻審での審議の規範を併記して紛争の最終解決を託すようにしました。
最近の訴訟事情は、紛争の多様化、態様の変化による国民の期待や要求が変化しました。
例えば、民事訴訟における弁論準備手続、電話やWEB会議システムの利用やラウンドテーブル法廷、刑事訴訟における裁判員制度や被害者参加、行政訴訟におけるオンブズマン制度などがその現れです。また、裁判所以外の機関が行う代替的紛争解決手段であるADRもしかりです。すべて紛争解決制度として訴訟より柔軟な運用が実現しつつあるのです。
最後に、「訴訟の在り方」に言及します。
この命題は、本ブログの(14)で紹介した斎藤朔郎著『裁判官随想』の下記一文を引用させて頂き回答とします。
「裁判官は付和雷同してはいけない。事大主義を鼓吹しない。所信を表明するのに怯懦(きょうだ)であってはならない。紛争の解決は、裁判の場合は、訴訟制度に任せるべきである。
合議の決定や上級審の判断に対して耳を傾けて反省と思索を重ねる雅量と謙虚さを持たなければならない。裁判では客観的良心の涵養が必要である。」
完
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