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EUが中国の禁訴令をWTO提訴している事案の進展
2025.06.04
はじめに
EUが中国の禁訴令(Anti-Suit Injunction、ASI)につき、WTO協定の一部を構成する知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)や、中国のWTO加盟議定書に違反するとしてWTO紛争解決手続[1]に付託している事案(DS611:中国‐知的財産権の執行)でパネルの判断が示されたことを受け、2025年4月22日、EUは上訴仲裁を申し立てることを発表した[2]。
本件パネルは、中国の禁訴令が一つの政策として、「一般的かつ将来的に適用される規則又は規範」(rule or norm of general and prospective application)として、WTO紛争解決手続の対象となる措置であることは認めたが、透明性原則違反という手続的な瑕疵を除き、TRIPS協定上の義務や、中国のWTO加盟議定書に違反していることを証明できていないとして、違反を認めなかった[3]。この点につき、EUは、パネルが協定解釈を誤ったとして上訴仲裁を申し立てている。
なお、EUが上訴審として選んだのは、機能不全となっているWTOの上級委員会ではなく、多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(Multi-Party Interim Appeal Arbitration Arrangement、MPIA)に基づく仲裁[4]である。EUと中国はいずれもMPIAの参加国として、本件パネル判断に不服のある場合はMPIAを利用することに事前に合意していた。過去にMPIA上訴仲裁を利用した事案は一件のみであり、本件が二件目となる[5]。
そこで、今回明らかになったパネルの判断の概要について確認したうえで、今後の進展につき、若干の考察を行いたい。
禁訴令とEUの申し立て
禁訴令とは、実質的に同一の事案につき複数国の裁判所に提訴され、管轄権が衝突した場合に、一国の裁判所が、他国の裁判所での訴訟を遂行することを禁止する命令をいう。2020年の後半に、中国の裁判所が、通信分野の標準必須特許(SEP)[6]関連の訴訟において、欧州や日本の企業に対して禁訴令を発出することが続いたことから、EUは、欧州企業による中国外の裁判所への提訴が阻止されているとして、2022年2月にWTOおける中国との協議を要請し、同12月にパネルの設置が要請された。
EUの主張とパネルの判断
(1)概要
EUの主な主張は、①中国の禁訴令は、(個別の裁判における判断を超え)「禁訴令政策」として「一般的かつ将来的に適用される規則又は規範」であること、②中国の禁訴令政策により、SEP訴訟の当事者たる特許権者が、中国外の裁判所で司法的な救済を受ける権利を阻害されていることがTRIPS協定第1条1項、第28条、第44条1、第41条1項に違反すること、③禁訴令を下した判決を公表せず、また関連情報の要請にもかかわらず提供をしなかったことがTRIPS協定第63条1項及び3項に定められる透明性原則に違反することである。
パネルは、①について認めたものの、②は証明できていないとして認めず、③については一部の内容につき違反を認めた。
【パネルの判断概要】
論点 |
EUの主張 |
中国の反論 |
パネルの判断 |
① |
2020年後半のSEP関連訴訟での一連の禁訴令の発出、最高人民法院や全人代による当該裁判例の是認等から、中国には「禁訴令政策」が存在する。 |
禁訴令政策など存在しない。 |
中国の禁訴令政策は「一般的かつ将来的に適用される規則又は規範」として存在する。 |
② |
中国の禁訴令政策は、特許権者が中国外の裁判所で司法救済を受ける権利を阻害しTRIPS協定に違反している。
|
TRIPS協定の目的は加盟国内での最低限の知的財産権の保護や執行を定めることにより国際貿易への障壁を軽減することであり、国境を越えた保護や執行までも企図したものではないため、TRIPS協定に違反しない。 |
TRIPS協定は加盟国内での特許権の行使や差止について定めたものであり、他の加盟国における特許権者の権利や差止について定めたものではいため、TRIPS協定違反には当たらない。 |
③ |
禁訴令を下した判決(注釈7に記載の裁判例②、③、④)を公表せず、また関連情報を要請しても提供しなかったことはTRIPS協定上の透明性原則に違反する。 |
いずれの裁判例も公表対象としての要件を満たさず、要請された情報についても開示対象に当たらない。 |
裁判例②については「一般的に適用される決定」として公表義務があり、また一部の要請された情報を提供しなかったことも透明性原則に違反する。 |
(2)論点①:中国の禁訴令政策は「一般的かつ将来的に適用される規則又は規範」である
WTO協定の付属書二(紛争解決に係る規則及び手続に関する了解(DSU))の第3条3は、「加盟国が、対象協定に基づき直接又は間接に自国に与えられた利益が他の加盟国がとる措置(measure)によって侵害されていると認める場合…そのような事態を迅速に解決すること」は、WTOが効果的に機能するために不可欠だとし、WTO紛争解決手続の対象となるのは「措置」であるとする。
先例では、加盟国による作為又は不作為であれば「措置」であるといえ、明文化されている必要はないとされているものの、明文化されていない措置(unwritten measures)は被申立国より、そもそも存在しないと主張されることが多い。このため、立証のハードルは高くなるが、状況的な証拠や証言により総合的に立証することは可能であるとされている。
先述のとおり、中国の裁判所では、2020年の後半に、SEP関連訴訟において、相次いで禁訴令が発出されているものの、個々の禁訴令は個別の事案における判断であって、その根拠法令は一般的な民事保全規定であり、それ自体が中国の「禁訴令政策」、すなわちSEP関連訴訟において禁訴令を発出する際の具体的な要件等について定めたものではない。
そこでEUは、2020年8月の中国最高人民法院による中国外の裁判所に司法救済を求めることを禁止する判断を皮切りに、中国の裁判所がSEP関連特許につき禁訴令を認めた5件の裁判例[7]の時間的な重複や類似性を示し、その法的根拠である民事訴訟法103条、104条、118条とともに、最高人民法院等が上記裁判例のうちのいくつかを禁訴令事案の典型事例としての掲載し評釈したこと等を挙げ、それが中国の「禁訴令政策」であり、TRIPS協定に違反すると主張した。
本件パネルは、以下の①から④といった事由を総合的に衡量した上で、⑤および⑥の事情があるとしても、中国でのSEP訴訟で禁訴令が認められる可能性があると関係者に期待させるものであり、中国の裁判所における同様の案件での将来的な判断指針となることが認められるとして、知的財産分野における国際的な並行訴訟についての中国の具体的な政策目標としての「禁訴令政策」が、明文化されていなくとも、「一般的かつ将来的に適用される規則又は規範」として存在することを認めた。
- 中国の裁判例にたとえ先例としての法的拘束力がなくとも、短期間のうちに複数の禁訴令が発出されていること
- その判断理由や違反した場合の罰則に多くの類似性が見られること
- 最高人民法院等の評釈でこれらの裁判例のいくつかが参照されていること
- 全人代においてもその方向性が是認されていること
- 2021年1月に禁訴令が認められなかった事案があること
- 2022年以降は同様の裁判例がないこと
(3)論点②:特許権者が中国外の裁判所で司法救済を受ける権利を阻害している
中国の禁訴令政策が、TRIPS 協定第1条1項1文及び第28条1項2項や第44条1項に違反するとのEUの主張に対し、本件パネルはまず、TRIPS協定1項1項1文は加盟国に対してTRIPS協定上の義務を遵守すべく、その国内の法律システムを整備することを要請するものであって、TRIPS協定上の目的や他の加盟国がTRIPS協定に違反する措置を講じることを禁止するものと解釈することはできないとした。また同第28条1項や2項、そして第44条1項についても、加盟国の自国内での特許権の行使や差止について定めたものであり、他の加盟国における特許権者の権利や差止について定めたものではないとした。中国の裁判所でSEPにつき禁訴令が命じられることがあるとしても、SEP保有者による中国での特許権の行使や、FRAND条件での実施許諾をする権利自体に影響があるわけではなく、また中国内での差止めが認められていないわけではない。そして同第41条1項についても、EUは、中国が自らの司法当局に、中国内での知財侵害の差止を命じる権限を与えていないと主張しているものではないため、同条項違反は認められないとした。
(4)論点③:透明性原則違反
EUは中国が、TRIPS協定にかかる「一般に適用される」「最終的な司法上の決定」を公表していないこと、具体的には、中国政府の公式刊行物で典型例として参照された、ASIを命じた少なくとも3件の判決を公表していないことを主張したところ、パネルはそのうちの1件について、「一般的に適用される」司法上の決定であり、中国は公表すべきであったとところ、中国は公に利用可能ともしなかったため、第63条1項違反を認めた[8]。
また、第63条3項については、「同1項に規定する種類の情報」につき、他の加盟国によるg要請に応じて提供しなければならないところ、EUが要請した情報の一部は同3項で提供する必要のある「種類の情報」に該当し、中国がこれを提供しなかったことから、違反が認められた。
若干の考察
本件パネルは、EUの主たる主張(中国の禁訴令政策が、特許権者が中国外の裁判所での司法救済を受ける権利を阻害しているため、TRIPS違反にあたるとの点)を認めなかったため、EUは本件パネル判断を上訴している状況にはあるが、明文化されていない措置でありながら、中国に「禁訴令政策」が存在することを認めたこと、また一部透明性原則違反が認められたことは一定の評価に値するものと考えられる。
先に述べたとおり、本件パネル判断は、現在MPIA上訴仲裁手続に付されている。MPIA上訴仲裁合意によれば、原則として90日以内に仲裁判断が示されるものとされている[9]。このとおりに進めば、7月の下旬には仲裁判断が示される予定であり、その内容が注目される。
また2025年1月20日、EUは中国を相手に、SEPのグローバルライセンス条件(実施料)に関して新たにWTOでの紛争解決手続を開始(協議要請)した(DS632)。
EUは、中国の法律上、中国の裁判所が、当事者の同意なく、(中国外のSEPを含む)SEPのグローバルライセンス条件(特に実施料)を定めることができることが問題であるとしている。具体的には、2023年11月のOppo対Nokiaの重慶第一中級人民法院判決でNokiaが異議を申し立てたにもかかわらず、OppoがNokiaに支払うべきグローバルなライセンス料率を定める判断をした。
TRIPS協定との整合性について、EUは、DS611と同様にTRIPS協定第1条1項1文、第28条1項2項、第41条1項、第44条1項や透明性原則(第63条3項)[10]違反を主張するとともに、TRIPS協定第2条1項に組み込まれたパリ条約第4項の2(各国の特許の独立)の違反も主張している。現時点でEUはパネル設置要請を行っていないようであるが[11]、同事案の今後の動向も注視したい。
[1] WTOの紛争解決手続とは、WTO加盟国の貿易紛争をWTO協定に基づき解決するための準司法的制度(外務省HP)
[2] European Commissionウェブサイト
[3] WTOのウェブサイト。なお、上訴仲裁に付されたため、パネル報告書はEUの上訴申立書に添付される形で公表されている。
[4] 2019年12月以降、WTOの上級委員会が米国の空席補充阻止によって機能不全に陥り、上訴を審理することができなくなったことを受け、EUを中心とした一部のWTO加盟国が立ち上げた暫定的な上訴手続。
[5] 初のMPIA仲裁事案はコロンビアーベルギー、ドイツ、オランダからの冷凍フライドポテトに対するアンチ・ダンピング措置(DS591)であり、2022年12月に仲裁判断が示され、同事案は現在DSU第21条5の履行確認手続に付されている。
[6] 無線通信分野などにおける標準規格の実施に不可欠な特許をいう。SEPに基づく権利行使を行う場合、SEP権利者は、自らが保有するSEPを合理的・非差別的な条件(FRAND条件)の下でライセンスすることを、標準化団体に対して事前に宣言(FRAND宣言)する必要がある。
[7] EUが例示した5件の裁判例は次のとおり。2020年8月28日付の中国最高人民法院によるHuawei対Conversantの決定(裁判例①)、2020年9月23日付の武漢中級人民法院によるXiaomi対InterDigitalの決定(裁判例②)、2020年9月28日付の深圳中級人民法院によるZTE対Conversantの決定(裁判例③)、2020年10月16日付の深圳中級人民法院によるOPPO対Sharp決定(裁判例④)、2020年12月25日付の武漢中級人民法院によるSamsung対Ericsson決定(裁判例⑤)
[8] 裁判例②、③、④のうち、裁判例②及び④は新しい原則や基準を示すものではないが、裁判例③は、将来のケースに適用され得る新しい解釈の原則や基準を示すものとして、「一般的に適用される」の要件を満たすとした。
[9] MPIA仲裁合意第12項
[10] 2023年12月、EUは中国に対してTRIPS協定第63条3項に基づき、先のOppo対Nokia判決の開示を求めている。
[11] 協議要請後、60日以内に解決することができなかった場合、EUはパネルの設置を要請することができるが、現時点でEUによるパネル設置要請は確認できていない。
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