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EUが中国の禁訴令をWTO提訴している事案の進展(MPIAによる上訴仲裁判断)
2026.02.25
はじめに
EUは、中国の禁訴令(Anti-Suit Injunction、以下「ASI」という。)が、WTO協定の一部を構成する知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(以下「TRIPS協定」という。)や中国のWTO加盟議定書に違反するとして、紛争をWTO紛争解決手続に付託していた(DS611:中国‐知的財産権の執行。以下「本件事案」という。)。2025年7月21日に本件事案に関する上訴仲裁判断(以下「本件仲裁判断」という。)が公表された。
本件事案のパネル判断の概要は、前稿「EUが中国の禁訴令をWTO提訴している事案の進展」にて解説したとおりであるが、本件仲裁判断はパネル判断を一部覆し、中国のASI政策がTRIPS協定の実体規定(第28.1条および第28.2条)に違反すると認定して、EU側の実質的勝訴とした。
この判断については、従来のWTO紛争解決制度、特に上級委員会に向けられてきた批判と同様、「不適切な司法積極主義(judicial activism)が示され、本来許容されるはずのない過剰な解釈(ギャップ・フィリング)が行われている」とする見解がある一方で、ウィーン条約法条約第31条に基づく条約解釈の範囲内にとどまり、むしろ実効的に機能するWTO紛争解決制度の維持・再構築を志向した妥当な判断であると評価する見解もあり、評価は分かれている。
上級委員会の機能不全を受けて2020年に設けられた多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(Multi-Party Interim Appeal Arbitration Arrangement 、MPIA)については、経団連[1]や専門家[2]からもその役割が評価され、活用が図られるべきとの提言がなされているところ、本件仲裁判断はMPIAに基づく上訴仲裁としては史上2例目としても注目を集めた。
本稿では、本件仲裁判断の概要を整理したうえで、本件仲裁判断を素材に、MPIAに基づく仲裁判断の内容が従来の上級委員会判断と比較して差があるのか、停止した上級委員会機能を事実上補完するものとなりうるのかという観点から、MPIAの今後の活用可能性について若干の考察を試みる。
本件仲裁判断の前提
禁訴令とは、実質的に同一の紛争について複数国の裁判所に提訴され、管轄権が競合した場合に、一国の裁判所が他国の裁判所での訴訟の追行を禁止する命令をいう。2020年後半に中国の裁判所が通信分野の標準必須特許(SEP)関連訴訟において[3]、欧州や日本の企業に対して相次いで禁訴令を発出しており、これにより欧州企業による中国国外裁判所への提訴が阻害されているとして、EUがWTO紛争解決手続を開始したのが本件事案であった。
本件仲裁判断の概要
(1) 中国の「ASI政策」の存在
WTO紛争解決手続において争うためには、中国の禁訴令が「加盟国がとる措置」に該当することが前提となる。
中国はパネル及び仲裁手続を通じて、「個別の裁判所が中国民事訴訟法等に基づき行為保全(禁訴令)を発した個別の司法判断があるにすぎず、国家としてこれを主導する『ASI政策』という不文の措置は存在しない」こと、また個々のASIについてもすでに対象SEP紛争が終了していることから、訴えの利益がないことを主張していた。これに対しEUは、複数の裁判例の時間的重複や類似性、最高人民法院評釈での典型事例指定や全人代常務委員会における是認といった一連の事情を総合すれば、中国には禁訴令に関する一般的政策が存在すると主張した。
パネルは、EUが指摘した諸事情を総合考慮し、中国の禁訴令は単なる個別裁判例の集積にとどまらず、「一般的かつ将来的に適用される規則又は規範(rule or norm of general and prospective application)」に該当するとして、不文の「ASI政策」の存在を認定し、本件仲裁判断もこの認定を維持した。
(2) TRIPS協定第1.1条の解釈
パネルは、TRIPS協定第1.1条第1文が定める「この協定の規定を実施する(give effect to)」義務について、各加盟国が「自国の法制度内」でTRIPS協定を実施するために国内の知的財産権制度を整備する義務にとどまると解釈していた。
これに対し本件仲裁判断は、ウィーン条約法条約第31条等に基づき文言・文脈・目的を踏まえた条約解釈を行い、TRIPS協定第1.1条には、各加盟国が自国で知的財産制度を整備する義務のみならず、「他のWTO加盟国がその領域において実施する知的財産権の保護・執行制度の機能を阻害(frustrate)することなくこれを行う義務」が、当然の帰結(corollary)として含まれると解釈した。
(3)実体規定(TRIPS協定第28.1条および第28.2条)違反の認定
本件仲裁判断では、上記(2)のTRIPS協定第1.1条の解釈を前提に、中国のASI政策がTRIPS協定の第28.1条や第28.2条といった実体規定に違反するかを再評価した。
(ア) 特許権者の排他的権利(第28.1条)
TRIPS協定第28.1条は、特許権者に与えられる排他的権利を規定する。本件仲裁判断は、同条が加盟国に対し、他のWTO加盟国において同条に基づき特許権者に付与された排他的権利の行使能力、すなわち特許権者の承諾を得ていない第三者による特許製品を製造、使用、販売申出、販売、又は輸入を防止する能力を阻害しないことを求めていると解釈した。そのうえで、中国のASI政策は、他国で付与された特許権を有する権利者が当該他国の裁判所に侵害訴訟を提起し、排他的権利を行使する能力を実質的に阻害しているとして、同条違反を認定した。
(イ) 特許権者のライセンス契約を締結する権利等(第28.2条)
TRIPS協定第28.2条は、特許権者が特許に関してライセンス契約を締結する権利等を有することを定める。本件仲裁判断は、同条の適用に当たっては、加盟国の措置が、他の加盟国の領域で保有される特許に関し、当該他の加盟国によって特許権者に付与された「ライセンス契約を締結する権利」の行使を阻害しているかどうかが問題となると解釈した。
そして、中国法の下でSEP実施者に対し強力な対抗手段としてASIを認めることで、SEP実施者側のFRAND条件に関する誠実な交渉インセンティブが大きく減殺され、その結果、SEP保有者のライセンス交渉上の地位が根本的に変更・弱体化され、「ライセンス契約を締結する権利」が不当に阻害されているとして、同条違反を認定した。
(ウ) 本件仲裁判断の総括
以上のとおり、本件仲裁判断は、中国における不文の「ASI政策」の存在を前提に、当該政策が他国の知的財産制度の下で付与される特許権者の排他的権利およびライセンス契約を締結する権利の行使を事実上阻害しているとの観点から、TRIPS協定違反を認定した。
中国の対応と今後の展開
本件仲裁判断により、中国のASI政策がTRIPS協定違反に該当すると認定されたが、中国は、ASI政策という不文の措置自体の存在を否定するとともに、仮にそのような政策が存在すると解されたとしても、2025年9月の最高人民法院による通達を踏まえ、既に是正済みであるとの立場を示している[4]。実際のところ、本件事案の対象となった5件の禁訴令以降、中国の裁判所による同種の禁訴令が発出された例は、少なくとも公表情報の範囲では確認されていない。
もっとも、中国の裁判所が今後どのような要件・手続の下でASIの発令を認めるのかについてはなお不透明であり、中国の裁判所によるASIの運用実態が今後どのように変化していくのかについては、引き続きその動向を注視する必要がある。
また、前稿でも述べたとおり、EUは別途、中国の裁判所が当事者の同意なくSEPのグローバルライセンス条件(特に実施料)を決定し得るとする中国法上の制度がTRIPS協定に違反すると主張してWTO提訴(DS632)を行っており、本年2月にはパネル設置要請に至っている[5]。SEPをめぐるグローバルレートの設定についての中国の裁判所の権限の行使の在り方についても一層の検討が進むことが予想され、当該事案の推移も注目される。
本件仲裁判断に関する考察とMPIAの今後の利用可能性
本件仲裁判断は、TRIPS協定第1.1条の文言上明記されていない「他国の制度を阻害してはならない」という義務を、同条第1文の「当然の帰結(corollary)」として導き出した。この解釈に対し、敗訴した中国のみならず、本件で第三国として関与した米国も強い懸念を示している。
米国は以前から、上級委員会が協定文言にない義務を解釈で創設する「ギャップ・フィリング(gap-filling)」を行ってきたと批判し、そのような司法積極主義が各国の政策的裁量(主権)を侵害しているとして、上級委員会の任命を拒否してきた経緯がある。2025年12月19日の紛争解決機関(DSB)会合においても、米国は、本件仲裁判断の「当然の帰結」理論は、協定文言に基づかない新たな権利義務を「創作」するものであり、旧上級委員会と同じシステミックな問題を再現しているとして警戒感を表明している[6]。
他方で、本件の仲裁判断が全59頁と簡潔にまとめられている点は、旧上級委員会時代に問題視されてきた「事務局主導による判断書の肥大化(institutional overreach)」からの脱却の試みとして評価し得る。仲裁人自らが主導権を持って比較的迅速に判断をまとめていることが伺えることは、米国の批判を意識しつつ、MPIAとして紛争解決の在り方を調整しようとする姿勢の表れともいえる。
さらに、本件仲裁判断は、第1.1条第1文について、文言、文脈、趣旨・目的に基づく条約解釈(ウィーン条約法条約第31条)の枠組みを踏まえて検討しており、新たな義務の創設が問題となった先例への言及も比較的抑制的である。TRIPS第1.1条第1文に「他国の領域における知的財産権の保護及び執行のシステムを阻害してはならない」という含意を読み込む点については、EUだけでなく、オーストラリア、カナダ、韓国など複数の第三国もパネル段階で同趣旨の立場を支持しており、本件仲裁判断を、従来の理解から完全に逸脱した「飛躍」した条約解釈と断じ切るのは必ずしも適切ではない。
TRIPS協定の交渉当時(1990年代初頭)には、現在問題となっているSEPやそれに関連するASIという概念自体が想定されていなかったため、条約の趣旨を現代の複雑な技術や紛争環境に適合させるための発展的な解釈と評価する余地もある。
SEP紛争は特許法にとどまらず、各国の競争法や契約法、国際民事手続法が交錯する複合的な領域である。中国自身も、現状は実施者側に立つことが多いものの、今後はSEP権利者としてのプレゼンスも高まるとみられている。その意味で、各国裁判所におけるASIの運用は今後もダイナミックに変化していくことが予想される。
MPIAの今後の活用可能性という観点からは、DS611について「不適切な司法積極主義の再来」という一部の懸念があることは否定できないものの、現時点でMPIAに基づく最終判断は本件を含め2件にとどまっており、その懸念を一般化することは適切ではない。この限られたサンプルだけをもって、「MPIAは予測可能性が低く、安定的な紛争解決制度ではない」と断じるのは早計であろう。
むしろ、WTO上級委員会が完全な機能不全に陥っている現状において、MPIAが「空上訴(appeal into the void)」を防ぎ、実効的な二審制として最終的な判断を示していることは高く評価されるべきである。日本及び日本企業にとっても、現行体制の下で利用可能な「より望ましい」紛争解決手段の一つとしてMPIAを前向きに位置づける必要性は変わらない。
今後もMPIA参加国による利用事例は蓄積されていくと考えられ、その過程で示される条約解釈の傾向や判断の安定性を継続的に検証していくことが不可欠である。
以上
[1] 経団連「WTO2.0の構築に向けて ―WTO改革に関する提言―」https://www.keidanren.or.jp/policy/2025/070_honbun.pdf
[2] 川瀬剛志「WTOに法の支配を取り戻す―日本のMPIA加入と空上訴対抗措置の導入―」https://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0696.html、国松麻季「国際貿易紛争解決の新たな展開 : 多数国間暫定上訴仲裁アレンジメントと自由貿易協定」法学新報130巻9-10号129~151頁
[3] SEPとは、Standard Essential Patentの略称であり、無線通信分野などにおける標準規格の実施に不可欠な特許をいう。SEPに基づく権利行使を行う場合、SEP権利者は、自ら保有するSEPを合理的・非差別的な条件(FRAND条件)の下でライセンスすることを標準化団体に対して事前に宣言(FRAND宣言)する必要がある。具体的なライセンス交渉の場面では種々の紛争が生じており、日本の特許庁による「標準必須特許ポータルサイト」の運用や各国競争当局、裁判所での議論の進展などを通じて、日本国内のみならず国際的にも関心が一層高まっている。
[4] Minutes of Meeting of the Dispute Settlement Body, 26 September 2025, Section 2.1-2.4 (https://docs.wto.org/dol2fe/Pages/SS/directdoc.aspx?filename=Q:/WT/DSB/M505.pdf&Open=True)
[5] European Commission, WT/DS632 – China – Worldwide Licensing Terms for Standard Essential Patents
[6] 在ジュネーブ米国代表部「Statements by the United States at the December 19, 2025, DSB Meeting」https://geneva.usmission.gov/2025/12/19/2/
